replay01

----------------0.571024 





「タイムマシンなんて……タイムマシンなんてっ……ウソだッ!」



俺の天啓とも言うべきひらめきを全力否定した紅莉栖がラボを飛び出してから十数時間、すでに昼間。
夜通し続いていたハイテンションな状態も冷めてきている、というよりも眠い。
電話レンジ(仮)がタイムマシンである事を確信し、さっきまでダルと共に検証実験をしてきた訳だが結果が如何せん芳しくなかった。
放電現象は昨日の一件の後、一度も再現出来ていない。手を変え品を変えレンジの扉を開けるタイミングを変えても駄目。
40回を超えても全て失敗、奇跡のようにあらゆる偶然が重なった瞬間が二回あっただけなのかも知れない。
そんな風に考えてしまったりもするほど精神的にも疲れが出てきている。
ダルもPCに向き合ったまま無言、キーボードやマウスでクリックする音は聞こえるだけ。
問題点も明らかとなったが、なっただけで根本解決には至っていない。
応急処置として可能な事はしたものの、本命である事象の再現が出来なければ前にも進めない。
二度ある事は三度あると言うが…………またか。

date:2010 7/30 12:34
from:閃光の指圧師
sub :寝すぎ
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メールの返事が来ないよ
~? まだ寝てる? そ
れってさすがに寝すぎな
んじゃない? 若いのに
老け込んだような生活し
てちゃダメだよ。って、
私が言えたことじゃない
か(笑) IBN510
0についての情報、どし
どし募集中~♪ 萌郁

閃光の指圧師(シャイニングフィンガー)こと、桐生萌郁からのメールだ。
元々俺の周りにはこんな頻度でメールをする人間はいなかった、この女に会うまでは。
まゆりとするとしても日に一往復もすればいい方だろう。
メールよりは電話だし、ラボに来れば顔を合わせるのだからメールをする必要すらない。
指圧師にはラボの場所も教えていないし、IBN5100の情報をやり取りするぐらいの関係でしかない。
連絡手段が限られているという点においては仕方がないといえばそうなのかもしれない。
それでも徹夜明けにこのメール頻度は流石に厳しい、この後何度来るかわからん。
先手を打っておくか。

date:2010 7/30 12:46
to :閃光の指圧師
sub :Re:寝すぎ
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全く逆だ。昨日からずっ
と起きたままだ。これか
ら寝るところだから、し
ばらくメールは控えてく
れ。

これでよし、と。
「なあ」
と、携帯電話を閉じてダルに呼びかけた途端にまた受信。何と言う速さだ。

date:2010 7/30 12:47
from:閃光の指圧師
sub :おやすみ!
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夏休みのバイトかな? 
あまり無理しちゃダメだ
よ、夜にまたメールする
ね。 萌郁

「オカリンなんか呼んだ?」
「……時間が稼げただけよしとするか。ああ、『サンボ』に牛丼でも食いに行かないか?」
腹が減っては戦ができぬではないがいい加減何か固形物を食べた方がいいだろう。
ドクターペッパーの飲みすぎで腹がたぷたぷになっているが、胃の収縮がどうにも治まらない。
睡魔と同じく空腹を誤魔化せるのも限界に来ている。
「あ~、めんどい……」
「腹は減っていないのか?」
「減ったけどさー」
「フン……煮え切らない男め」
さっきから何を見ているのかと肩越しにモニタを覗き込んでみる。
「はふ~。ラージハドロンコライダーにはマジ癒されるよな~」
良くわからない近未来的な機械の写真、映画の舞台装置のようにも見える巨大なそれを眺めながらダルがしみじみと呟いた。
「き、貴様……! 今、なんと言った!?」
ラージハドロンコライダー?それは呪文か?それとも必殺技名か!?
「ラージハドロンコライダー。知らんの?」
ダルの説明によればSERNの持つ大型実験装置の一つ、略称LHC、大型ハドロン衝突型加速器。
粒子衝突によりミニブラックホールが出来、地球が呑み込まれるというシミュレーション動画もネットに流れていた気がする。
そういえば、ジョン・タイターの乗ってきたタイムマシンもミニブラックホールを応用したものだったはず。
奴はSERNが2001年からタイムマシン研究を始めて2034年に完成させ、その後の2年で世界をディストピアとして統治したと言っていた。
しかしながらミニブラックホールを生成可能と言われているLHCの稼動開始は、SERNの公式発表では2009年であり、奴の言葉とは隔たりがある。
SERN、ジョン・タイター、ミニブラックホール、そしてタイムマシン。
共通項はあるもののそれら全てを繋げる線は見つかっていない。
もし見つかったとすれば、2000年に奴が現れたという事を俺以外誰も知らない理由も、
あの日、秋葉原の駅前で俺の前から一瞬にして消え去った何百人という人達の行方もわかるかもしれない。
何かが、見つかって欲しい。
他に今やれる事があるわけでもない、SERNについて情報収集をしておいても損はないだろう。
ここは一つ、ダルのスーパーハカースキルに全てを託すとするか。



気がつけば日は傾き、黄昏時を迎えていた。部屋の中がうっすらと日没のオレンジに染まっている。
SERNへのハッキングを一任されたダルはひたすらにカタカタとキーボードを鳴らし、貧乏揺すりをしている。
姿勢は俺がソファで仮眠を取る前と大して変わらないようにも見える。
過去にSERNがハッキングされた事があるとは言え、そう易々とは突破させてはくれないのだろう。
こればかりはダルを信じて待つしかない。俺は俺に出来る事をすべく、ケータイから@ちゃんねるに接続する。
するとタイミングよく噂のタイター殿が降臨中だった。早速議論に参加する。
…………しかし、予想通りというべきか、俺の思いとは裏腹に遅々として話が進まない。
奴からは少しでも多くの情報を引き出さねばならんというのに、煽ったり荒らしたりといつも通りの流れ。
苛立ちは募る一方、俺が場を静めようとしても何故か火に油を注いだかの様に燃え上がるばかりだ。
だいたいこの栗悟飯という奴が喧嘩腰すぎる。こいつが来ると往々にして真っ当な議論は出来なくなる。
現行スレから一時撤退する。過去レスを読み直していて気付いたが、タイターは頻繁に“世界線”という単語を使用している。
世界が大きく変わる時に世界線も変化するらしい。2010年現在の世界線変動率(ダイバージェンス)は『0.571024%』。
2036年を基準にして現在時点のずれをを数値化しているらしいが、そもそも世界を測る事など可能なのだろうか。
少なくとも2010年時点ではそんなものはないだろう、近い未来発明されるのだろうか。
0.571024……来ない鬼嫁、めが余計か。来ないおツーシー、CO2じゃ逆か。来ない大西。違うな、来ない鬼氏。これでいいか。
マッドサイエンティスト鳳凰院凶真としての勘とでも言うのだろうか、この値は覚えておいた方がよさそうだ。
「こんちゃーっす」
コンコン、とノックと共に聞き慣れない女の声が聞こえた。玄関がゆっくりと開いてどこか見覚えのある顔が室内を覗いてきた。
こいつは確か――――
「どもー。ブラウン管工房です。修理頼まれてたテレビ、直ったよ。引き取りに来てくんない?」
俺と目が合うと三つ編みおさげの女がはにかんだ。そうだ、ブラウン管工房に一昨日雇われたバイトだ。
横目でダルの様子を窺う。貧乏揺すりがさっきより加速していた、集中を乱してはまずいな。
そそくさと女と共に部屋の外に出る。横顔を見ながら思う、この女の名前はなんだっただろうか。
“あまる”だか“あまな”だったような気がするが。
「なんでコソコソしてるの?」
「今、我が相棒である天才が重要なミッションを遂行中なのだ。邪魔したくない」
ここまで出掛かっているのに出てこない。
正式に自己紹介されたわけではない、しかしここで聞きなおすのは負けのような気がする。
「ふーん。君達って何してる人?」
「前にも言ったはずだ。俺達の秘密に踏み込めば、貴様も危険に巻き込まれる可能性があると」
「未来ガジェット研究所っていうんだよね」
俺は素早く蟷螂の構えを取り、警戒した。
「な、なぜ知っている? 俺は説明した覚えがないぞ。まさか貴様、“機関”のスパイ――!?」
「む――――その構え、これ以上のことを知りたければ俺を倒せって奴だね。映画でしか見たことなかったけど実際やってたんだ」
何で目をきらきらと輝かせているんだこの女は。常識で考えればそれはないというのに。
女の方からぱきぽきと指と首だか肩だかを鳴らすような音が聞こえたような……! まさかこの俺が現実逃避だと!?
「いくよっ」
誰の目にも判るほど戦闘モードに入った女が、最初からないような間合いを詰めるべく飛び出す。
「ま、ま待――――
この至近距離で格闘技能ゼロの俺に出来るのは後方への離脱のみ、と考える前に反射的に体を後ろへ引いていた。
体重移動がなされる最中、重心が残った右足に女の左足が落とされ――――ずに、一瞬で世界が夕焼けの緋色に染まった。
あ。これは死んだ。
浮揚感と共に率直な感想が浮かぶ。目の前にトドメの一撃を振り下ろす為に引かれた右拳と女の顔が見える。
死を迎える瞬間、人は全ての動きがスローモーションに見えるというがこの感覚がそれなのだろうか。
繰り出される女の拳の音が遅れて聞こえる、否、唸りを上げながら拳が迫ってきている。
ジャージ質の長袖の無数のしわと繊維構造が無数のカルマン渦を生み出し不協和音を発生させ、
腕と拳の捻りがそれを拡散させる方向へとベクトル変異を起こさせているに違いない。
無駄に高速回転する頭脳とは逆に体は一向に動かない、1秒が10秒、100秒、もっとだろうか。
無限に引き伸ばされるようにも感じる――――ただそれも、拳が当たらないと解った時までの事だった。
拳が頬を掠めて外れた途端、時間が元に戻る。重力に引き寄せられていた体は右腕を女に掴まれる事で転倒から免れた。
「はい。あたしの勝ちってことでいいよね」
間近で見る女の満面の笑み。
直前の凛々しさとのギャップもあってか、あまりにも無邪気で幸せそうなその表情に、間抜けな事にも数秒目を奪われてしまう。
……阿万音鈴羽。思い出した、確かそういう名前だった。
「よっと、見掛け倒しで残念だなー」
構えは割としっかりしてたのに、と感想を漏らす彼女に片手一本で引き起こされる。
良く見れば腕だけでなく脚の方もしっかりと筋肉が付いているようだ。決して太いというわけではない。
絞り込まれているというか、鍛えられているというか俺やダルとは明らかに質が違う。
「女だからって甘く見てた? 見た目で判断しない、これ戦場での鉄則だよ」
勝ち誇っているその鼻っ柱をへし折ってやりたいがしかし、今の一回で正攻法ではそれが不可能と解らないほど俺は愚かではない。
故に、俺は俺のやり方でその優位性を逆転させて見せようではないか。
「フッ、そんなことは貴様に言われるまでもない。阿万音鈴羽よ、俺はお前を試したのだ」
「な、なにおー」
「現代人にはない鋭い野生の輝きを持つ瞳、そして身のこなし。お前にはいずれ真の戦士になれる素質がある。
 しかしその道のりはまだまだ長い、今はしがないバイト戦士として精進するがいい」
「あたしはもう一人前の戦士だよ!」
「バイト戦士よ、貴様はもう少し謙遜と遠慮と言う言葉を知った方がいい。
 今の状態が限界か否か、仮に限界と考えてしまえば向上心は生まれず思考停止、可能性の芽は摘まれてしまう。
 逆にそう考えなければ伸び白を埋めるべく己を追い込み、鍛え、ともすればそう思っていた壁を容易く超えてしまうかもしれん。
 未完成であることをなんら恥じる必要はない。懸命になるその姿こそ美しく貴いものだ。
 それが理解できないとは愚かにも程があるぞ」
「ぁ……ん、えっとそれ、遠回しにあたしのこと褒めてくれてるのかな?」
「どのように受け取るかは自由だ。貴様はこんな所で留まるには惜しい逸材だ、もっと上を目指せる。
 この鳳凰院凶真は真実しか口にしない」
「えへへそっか。しょうがないなぁ、そういうことにしといてあげる」
かっ、可愛いとか別に思ってないぞ! もしそう思っているなら負けと同意義ではないかっ。
ここまで言葉を並べ立てた意味もない、というより形はどうあれ負けてやったのだ。先程の約束は果たさねばなるまい。
「ゴホン、あー、話を戻すぞ。簡単に説明するがこれから話すことは他言無用、いいな?」
鈴羽がコクコクと頷いたのを確認してから言葉を続ける。
「我ら未来ガジェット研究所は、世界を影から操る闇の機関に対抗し、その支配構造を破壊する為に活動しているのだ。
 フゥーハハハ」
「へぇ~。その闇の機関って、SERN?」
一瞬キョドってしまう。何故そんな単語がいきなり出てくるのか。明らかに俺の想像の斜め上を飛び越えて行ったぞ!?
「そ、そうだが……」
白衣の襟を正し、取り繕いつつ認めはする。
「おおっ! やっぱそうなの? あいつら唾棄すべき連中だよね」
「なぜ、俺達が今まさにSERNへハッキング中だと知っている!? 何者だ貴様ッ!」
口ではそう言いながらもまさかSERNの尖兵か?
すでに俺達の行動を見越して先回りしているとは……額に冷や汗が滲み焦燥感が背筋を焦がす。
これほどの手練を差し向けるとは切羽詰っているなSERNッ……!
「え? ハッキングなんてしてるの?」
「……は?」
本当に、紛らわしい真似をされると素で困る。それより。
「いいからこっちの質問に答えろ、なぜ俺達とSERNの関係を知っている?」
「あー、えっと、それは……いやあ、あはははは」
さっきまでとは明らかに違うぎこちない笑み。
「実は昼間、君達の話し声を聞いちゃってさ、そこから良く聞こえるんだよ、中で話してる声。
 本当にそんなことしてるんだったらもう少し慎重にした方がいいよ。
 なんて言ったかな、ほら、“壁にミミあり、商事にメアリー”とか昔から言うでしょ」
それは諜報部員ミミの情報網でどこぞの商社の社長メアリーに俺達が出し抜かれるとでも言う例えか?
ことわざを鈴羽が間違えて覚えていただけとしても、窓を開けっ放しにして大声で話していたのは事実だ。
鈴羽に倣って2階を見上げる。ダルの独り言もここまでは聞こえてこないのか、今は無音だ。
タイムマシンなんて絵空事を簡単に信じる一般人はまずいないと思うが、ハッキングはそれに比べれば想像しやすい。
今後は注意した方がいいのだろう。その場合は暑さと死闘演じる事になってしまうが。
「あたし、昨日からここで働き出したんだけど、これが予想以上にヒマでさぁ。今日だけで四、五回は外に出たね。
 客来ないかなーって、店の前で索敵しちゃったね」
唾棄の次は索敵か。そんな非日常的な言葉を使うのは俺ぐらいと思っていたが、この女と意外にフィーリングは合うのかも知れんな。
素質があるかもしれないというだけで、言うまでもなく俺はスペシャルで唯一無二、孤独な存在なのだから。
共に肩を並べて歩ける者など居ないのだ……と一時的な感傷に身を預けながら、鈴羽に続いてブラウン管工房の扉を抜ける。
「繰り返すがさっきのことは他言無用だ、わかってるな」
「わかってるって。これでも口は堅いから任せといて」
鈴羽がニヤリと笑って、自身の胸をドンと叩いた。店内の静けさに視線を巡らせる。
店長が居ないが、またあの小動物、娘の綯絡みだろうか。まったく何と言う溺愛ぶりだ。
今は鈴羽が居るから以前にも増して楽に動けるようになったのだろう。
“すぐ戻ります”の札を出して数時間帰ってこなかった事も過去何度もある。
「つーわけで、直ったテレビはこれね。お代は1000円でいいってさ」
サービス価格なのか思いの他安い。鈴羽へ代金を渡し代わりに領収書を受け取る。
「まいどあり。んじゃ、持ってっていいよ」
「これを一人で持って行けと?」
「え? 違うの? 持ってきた時も一人だったんでしょ?」
こいつ、階段の上りと下りでは消費される労力が十倍違うのを解っているのだろうか。
「手伝ってもいいけど、そっかぁ。もう力仕事も女がやる時代かぁ」
解っていないとしても俺を片手で引き起こせる腕力があれば、これを運ぶぐらい余裕だろうに。
そんな風にため息交じりにしみじみと皮肉を言われては仕方あるまい。
「フン、誰も貴様に手伝ってもらおうなどとは思っていない。
 というより、貴様のような女子に手伝ってもらうなど、この俺のプライドが許さん」
「おおー」
鈴羽は一瞬目を丸くして、それからたぶん、憧れの眼差しで俺に向けて拍手した。
「今の、すごく男らしいじゃん。あたし惚れちゃうかも」
フッ、騙されるものか、とでも返そうと思っていたのに意外な反応の良さに声が出なかった。
まあいいだろう、我が能力『顔色窺いは大人の嗜み(カラーリングジェントルマン)』を昨日今日知り合ったばかりの女に見せる必要もない。
「うむ、惚れたと言われて悪い気はしない。困ったことがあればなんでも相談するがいい、バイト戦士よ。
 俺も多忙を極める身だがその合間を縫って手を貸そう」
とか返しつつ、修理の終わったテレビを抱えあげる。ずっしりと両手に響く重量感。
むう……前よりも重くなってないか、これ。
「君ってさ、そんな風に誰にでも優しいの?」
「さあな。ただの気まぐれかもしれんが男に二言はない。
 しかし証拠の提示がないのは片手落ちだ、及第点は出せないぞ。嘘を吐くならもっと巧くやることだな」
180度ターンして扉へと向き直った所で、カウンターを飛び越えて鈴羽が横に着地した。
「じゃあ、これでどうかな」
「ん?」
すっと鈴羽が背伸びをするのが見えて、次の瞬間には頬に柔らかい感――――眩暈を伴う衝撃が走った。
「――――り口同士は幾らなんでも無理かな、あははは」
鈴羽の声に、はっとして我に返る。まだ頭がくらくらしている。自分が自分でないような。
気付けば両手からあれだけあった重量感が消えている。わけがわからずまた混乱する。
びっくりして落としたのかとも思ったが、違う。しっかりと、この両手に持っていたはずのテレビがない。
二度三度首を回して室内に向き直った所で見つけた。テレビは、カウンターの上に鎮座していた。
「たぶん一目惚れってやつ? 直感やフィーリングって大事だと思うんだよね」
寝ぼけてたのか?それとも白昼夢というやつか?自分に起きた事の理解が出来ない。
確かに俺はテレビを持っていた、それで横からいきなりバイト戦士の顔が迫って……キスされたのか?
キス……だと……? それで気が動転して前後の記憶に混乱が生じたとでも言うのか?
馬鹿な、小さい頃にまゆりともしたがこんな風にはならなかったんだぞ。
「こっちに来たばかりでさ、まだ誰も頼れる人居なかったんだよね。こんな可愛いコ捕まえちゃって、ついてたねコノ」
にやにやした顔の鈴羽に肘で横腹をぐりぐりされる。まだ自分の置かれている状況が理解できない。
嬉しい事なのか?これは夢なのか?どうしてこうなった?
「きぃ、貴様何の冗談で――――
声が裏返る。
「冗談で出来ると思う? もう少し女の子の気持ちがわかる方がいいかな」
「……くっ」
鈴羽の視線に耐え切れず、背を向けて携帯電話を耳に当てる。
「俺だ、今強烈な精神攻撃を受けているっ、長年に渡る“機関”との戦いによって緊張を強いられてきた心がついに悲鳴を上げ始めた!
 嬉しい悲鳴か?……だと…………ななっ何をふざけているのだッ! この俺にそんな――――
突如響くメール着信のアラーム。思わずビクッと体がすくむ。
こちらの様子を不思議そうに見詰めているだろう背後の鈴羽に対し、咳払いをしてメールを確認する。

date:2010 7/30 18:30
from:閃光の指圧師
sub :起きたかな?
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おはよー。スーパーハカ
ーさんの連絡先教えてほ
しいよー。こうしてのん
びりしている間にも、I
BN5100が他の人の
手に渡っちゃうかもしれ
ないんだよ? 萌郁

いい時間といえばいい時間にはなっているものの、もう少し受信者の気持ちを考えてもらいたいものだ。
そんなにもIBN5100欲しいのかこの女は。それだけの価値があるのだろうか。
理解に窮する……しかし指圧師がそれを見つけるまではこのメール攻撃が続く訳だ。
「なんか渋い顔してるね、死亡通知でも来た?」
うんざりとした思いがそっくり顔に出てしまっていたらしい。
「はあ?」
聞いた言葉の意味がわからず反射的に聞き返す。
「……た、例えだってば。えーと。イヤな報せでもあったのか、って聞きたかったわけ」
バイト戦士はメールを読んでいる間にカウンターの向こう側へ戻っていた。
死亡通知? いやいや、そんなものよりはずっとましだろうが、受け取った事がないから比較のしようがない。
「……似たようなものだ。IBN5100というレトロPCにやたら執着している女がいてな」
「IBN5100……?」
鈴羽が立ち上がり、
「知っているのか?」
「ああ、うん」
そして座る。
「そうか。IBN5100の都市伝説は有名だったのか」
それなりに情報は流れているという事か…………ふむ。
「そ、そうそう。都市伝説で知った。君はどの程度まで知ってんの?」
「IBN5100を実際に探し回ってみたが、結局アキバにはなかったというオチは知っている」
ダルの話によればそれなりの人数が動員されたようだが、影も形も見当たらなかった。
壮大な釣りだったのだろう、と、結論付けるのは割と妥当か。
あの指圧師からの一方的なメール攻撃も止められるかもしれないな。
「……そっかぁ。そりゃそうだよね」
バイト戦士が掌でピンバッジのようなものを転がしながらしみじみと呟いた。さも当たり前かのように。
「何か知っているような口振りだな」
「え? いやあ、知っているような知っていないような、って感じかなあ。
 あたしは知らないけど、遠い知り合いが知ってて、それをチラッと聞いたことがあるみたいな。あは、あはは」
俺の一言で鈴羽は自らの失敗に気付いたのか、一瞬にして顔色を変えて言葉をまくし立てた。
追い詰められ精神的余裕を失った時の人間の行動として、まず喋る速度が上がる。そして視線が泳ぎ、挙動不審になる。
これに今の鈴羽は漏れなく該当している。見ているこっちが同情したくなるような不器用さだ。
愛想笑いを浮かべる時は明らかにウソをついているようにみえる。その証拠に。
「………………」
鈴羽は愛想笑いを凍りつかせたまま、何も答えない。
もう頭の中に弁解理由が浮かばないのだろう、それとも何とか答えようと必死にフル回転させているのだろうか。
「はぁーあ。キスまでされたのに、そんな目してあたしのこと見るんだー。あー、傷つくなー。乙女心が痛いなー」
じっと見詰める事三十数秒、鈴羽は折れて、その腹いせか俺に文句をぶつけ出す。
「セリフを棒読みしても俺の心は動かんぞ」
これほど演技が下手だとある意味わかりやすくて扱い易いかもしれん。あのフェイリスと対極にあるな。
「せっかくIBN5100についての興味ぶかーい情報、教えてあげようと思ったのになー。
 そうだなー、ヒントだけはあげよっかな。わかりそうでわからなくて身悶えする君を見るのもいいかもしれないし」
顔色もころころと変わる。眉毛をハの字にしてたかと思ったらもう悪戯っぽく弧を描かせている。
「IBN5100にはね、実は隠された機能があるんだよ」
2000年に来たジョン・タイターも同じような事を言っていたな。
「確か、IBN5100には独自のプログラミング言語があるとかないとか」
「ウソォ? なんで!? ねえ何で知ってるの!?」
「能力名『カマかけ(サイズハング)』……俺は貴様の心の内を読み取ることが出来るのだ」
そして読み取られた相手は死ぬ。
ボディランゲージともとれるほど面白い反応を示してくれたのでつい、隠し通す予定の能力を明らかにしてしまった。何たる不覚。
「の、能力って。そんな反則…………ねえ、君みたいな能力者って他にも居るの?」
「いるわけがなかろう、俺がスペシャルなのだ」
両手で顔を隠しつつ指の間からこちらを覗き見る鈴羽に、ここぞとばかりに胸を張って答えてやる。
「そ、そっか。いないのか。びっくりしたー。でもいるって時点ですごいな。やっぱSERNの所為で退化したのかな……」
胸をなでおろしたかと思えば腕を組んで難しそうな顔をしたり、ちょっと見ていて飽きないかもしれない。
深い意味はないぞ、深い意味は。って誰に言い訳しているのだ俺は。
「でもさ、戦闘になれば不意打ちは当然もありえるし、身体能力低かったら心が読めても回避不可能だよね。
 やっぱ、1000メートル級の長距離狙撃を命中させられるとか、いかに効率よく相手の関節を極められるとかの方が、重要だと思うな。
 熟達したスキルの方がいざという時、役に立つもんだよ。特殊なだけに力を過信するってこともあるだろうし」
こいつは何を言ってるんだ。お前のいざという時は戦時下か何かか?
先程の格闘術も一朝一夕では身に付かないものなのだろう。思い返してみれば鈴羽は最初、間違いなく俺の足を折ろうとしていた。
それを途中でやめてこかす方に変えたのだ。あの0.1秒で俺が非戦闘員だと判断し、瞬時に行動を切り替えた。
明らかにその辺に住んでいる学生やフリーターではない。
「貴様……何者――――」
「ち、小さい頃から護身術とか教え込まれててさ、実戦経験積みにちょっと危険な所にも行ったり行かなかったり? みたいな。あはは……」
またしても愛想笑い。この狼狽ぶりは不自然にも程があるぞ。
ものの数分で人となりが見破られしまうとは、俺が見抜いた通りやはり見習い、バイト戦士なのだろう。
もしかしなくても俺の洞察力がずば抜けているだけなのかもしれない。瞬時に物事を理解できてしまうのはむなしいな。
これも天才故の宿命か。
「話を逸らそうとしても無駄だぞバイト戦士。観念して話すがいい」
「くぅ……IBN5100はね、APLやBASICが普及する前に書かれた、IBN独自のプログラム言語も解読できちゃうんだ。
 これって驚愕でしょ? 今やIBN5100でしか解読できない、失われたプログラミング言語もあったりするんだよ?
 だから、IBN5100はすっごくレアなPCなの」
だんだん思い出してきた。2000年にタイターがスレにその事を書き込んだ後、IBNに問合せが殺到して真実が明るみに出たのだ。
IBN社員は技術者のみしか知らない独自言語の取り扱いが、IBN5100で可能だと公式に認めていた。
何故そんなものを実装したのかまでは誰も言及していなかったな。そこが不思議といえば不思議でもある。
IBN側が公式コメントを控えたのだったか……何年も前の事になると記憶が曖昧になるな。
「なるほどな。バイト戦士、情報提供感謝する」
カウンターの上のテレビを抱え込みブラウン管工房の扉に手をかける。
「んで返事は?」
開けた扉が閉まらないよう左足でつっかえ棒をして、鈴羽の方へ振り向く。
「返事?」
「あたしの気持ち、行動で提示してあげたよ?」
カウンターに両肘をついて、両手で両頬を挟んで、鈴羽がまっすぐに、俺を見ていた。
「今度は君の番」
今までの仕返しをするかのように鈴羽がにやりと笑っている。思い出す。しかし頬にその感触はなく思い出せもしない。
それでも否定できない事実なのだろう。思えばどうしてあんな事を言ってしまったのか。
自分の迂闊さが呪わしい。さっきとは逆に、内心うろたえまくっている俺から鈴羽が目を離さない。
大体この接し方の変わり様はなんなのだ。2、3日前まで他人だったとは思えないような親密さを感じる。
責める訳でもなくただじっと何も言わずに見つめてくる視線が、なんというかむず痒い。
視線が外せない…………駄目だ、もう耐えられん。気力を振り切って視線を外す。
「……か、考えておくっ」
一体何を考えるというのか。自分でも良くわからぬままそう答え、扉の外へ撤退していた。






-----------------0.571402 





その後の3日間は怒涛の勢いで流れていった。
40時間超の激闘の末、ダルがSERNへのハッキングに成功し“Zプログラム”という名でタイムトラベル研究を極秘裏に進めている証拠を見つけた。
そこを皮切りにSERNのサーバ内にある謎のデータベースがIBN5100で構築されたものだとタイターの助言により判明、
研究を進めるに当たって人体実験で何十人もの人間を犠牲にしたという報告書――ゼリーマンズレポートも見つけてしまう。
研究資料からこの電話レンジ(仮)で起きている事象についてもおおよその見当がつき、
検証実験を重ねる事により過去へ飛ぶメール――Dメールが送信可能な時間帯、送信可能な文字数も明らかとなった。
またIBN5100入手にも成功はしたが、SERN評議会なる高レベルアカウントが必要であり、
IBN5100の操作方法も良くわからない為、こちらはまだまだ時間がかかりそうだ。
そういえば、バイト戦士が気になることを言っていた。

「それ以上聞くと、後戻りできなくなるよ」

あの時は他の事も重なってて踏み込めなかった。遠回しに“君達の人間関係を壊したくない”と言っているようにも聞こえた。
あいつは牧瀬紅莉栖に私怨があるらしい。それがなんなのかは俺には見当も付かなかった。
――――そして8月3日の朝、俺は久し振りに悪夢を見た。SERNの暗部に触れた衝撃が想像以上に精神に響いていたのだろう。
ケータイを見るとメール着信を示す点滅、どうやらこれのおかげで目が覚めたらしい。
ぼーっとそれを眺めていると、また着信した。

date:2010 8/3 8:27
from:閃光の指圧師
sub :いないの?
---------------------- 
いないの? 今どこにい
るの? 秋葉原のどこか
にいる? 萌郁

要件はまとめて書けと先日注文を出していたはずだが。指圧師にとってメールは喋る事と同意義なのだろうな。
確信があったわけではないが、玄関の鍵を開けるとそこにケータイを握り締めた萌郁が立っていた。
「ぁ……」
萌郁がケータイを握ってない所を見た記憶がない…………一度そう思い、少し考えて否定した。
俺はほとんど彼女の日常を知らない、あくまでもこれはほんの一面に過ぎないのだと気付いたからだ。
玄関で立ち話という雰囲気でもなかったので室内へ入るよう視線で促す。
「寝ていたのだ……」
時間を見れば8時30分を回った所、15時間近く眠っていたのか。寝すぎて疲れがたまってしまったのか、逆に眠い。
ドアが閉じられる音を耳で確認してからソファに寝転がる。萌郁は部屋には入ったものの隅の方に所在なさげに立っている。
「…………汗、びっしょり」
「フッ、なに、少しばかり、宇宙を漂う粒子の気分を味わっていた」
何故あそこで聞こえたのが紅莉栖の声なのかはわからない。しかもやけに挑発的て愉悦に満ちていた。
あれがまゆりだったらまた違ったのだろうか。などとぼんやりした頭で思う。
「……IBN5100を見に来たのか?」
声の代わりに、肯定を意味するメールが送られてくる。目の前に相手が居るのにどうして声で意思を示さないのか。
この間会った時も会話がめんどいとか言っていたな。俺にしてみればメールを打つ方が余程めんどくさい。
見に来てもいいと言ったのは事実だが、予定は組んで欲しかったものだ。
編プロの仕事をしているのであれば取材対象とのアポイントメントの取り方の一つや二つ、知っているだろうに。
「まさか……レトロPCは隠れ蓑、本命は俺の寝起きを狙っての取材か!?」
初めて会った時、こいつは無断で俺の顔を撮影したのだ。
世界を股にかける狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真の情報であれば、ちょっとした事でもマスコミが食いつくというものだ。
く、本拠地が明らかになった以上、メディアも手段を選んでいられないという事かっ……!
ここで俺が目にしてきた各国の暗部を暴露しようものなら、世界はたちまち混迷の渦に巻き込まれるであろう。
だがこれは俺の望むべき混沌ではない、しかし"機関”の奴等は手段を選らばないそれ故に――――
「いい……?」
何がいいと言うのか。ここからが燃える展開だというのに、空気が読めていない。
「主語を付けろ、それでは何のことか解らん」
萌郁の話す言葉はたどたどしい。メールであればあれほど饒舌で馴れ馴れしいのに声に変わるだけで何故ここまで不器用になるのか。
「IBN5100……見せて欲しい」
「……いいだろう。しかし約束通り見せるだけだ。見たら帰る。それでいいか?」
間違っても譲ったり貸したり等できない、これがなければSERNの最深部へは届かないのだから。
そう、これは直感というよりも確信。また同時にアキバの都市伝説が本当だったという物的証拠でもある。
取るに足らない小さな成果でも横取りされるのは気分が良いものではない。
「……………………わかった」
ケータイをしばらく眺めていたからメールが来ると思っていたが、萌郁は声で返答した。
苦渋の選択をしたかのように唇を噛み締めている。
「そのダンボールだ。中に入ってる」
開発室との区切りのカーテンを開け、部屋の隅を顎をしゃくるように指し示してやる。
「……っ」
あまり表情がはっきりしない女だと思っていたが、この時ばかりは違った。
それが信じられないとでも言わんばかりに目を丸くして、ある意味ビックリ箱を開けた時の様に背筋を反らす。
それからゆっくりと、箱の中へ顔を近づけていく。目線がせわしなく動いている、本当にIBN5100なのか細部の確認しているのだろう。
取説はダルが持ち帰ってしまったんだったな。あれがあれば見つかったのは説明書だけでしたなんてこの女を騙す事も出来た訳か。
一度協力をすると言った手前、そんな事は実際可能な状況だったとしてもしなかったが。
思い出したかのように萌郁がケータイへ視線を落とす。届いたメールは……写真を撮らせろだと?
何か機材でも外に置いてあるのだろうか。ここに入ってくる時はケータイ以外目立つものは持っていなかった。
「無断撮影は禁止だ。どんなカメラで撮るのか教えてもらおう。
 使用するカメラをその机の上に置け。それ以外の妙な真似はするな」
世界屈指の頭脳を持つ俺の顔は言うまでもなく、IBN5100についてもSERNに対する秘密兵器である。
許可制にした上で画像も検閲にかけなければメディアへの公開は不可だ。
公への露出は必要最小限に抑えなければすぐに“機関”に察知されれてしまう。
「…………」
萌郁は机の所へのろのろと移動してケータイを置く。その手は離さずにケータイの上に載せている。
「……まさか、それか? そのケータイの内臓カメラで撮ると?」
無表情のまま萌郁はしっかりと頷いた。機材を忘れてしまったのだろうか。ならばあとでまた時間を合わせてくればいいだけの話。
情報は鮮度が命というのならば発見した当日に来るはずだ。2日も来なかったという事は、意外と忙しいのだろうか。
タイトなスケジュールの合間を縫ってラボへ来たが、それ故に満足な機材が用意できず急場しのぎのケータイで撮影と。
これなら辻褄が合うな。基本的に夜型だとメールでは言っていたし寝る時間もないのかもしれない。
そう考えたら少し気の毒になってきた。
「OKだ。自由に取ってもらって構わん。ただし、この俺の顔以外だ。
 もしも撮ったら、俺はお前の口を封じるしかなく「それは、ないから。岡部君の顔はもう必要ない……」
いそいそと萌郁はダンボールの前へ移動し撮影を始めた。
「ちぃーっす。岡部倫太郎、居る? お、その人は?」
ソファに再び寝転がった所で、突然ドアが開く。その音に萌郁が身をすくませる。入ってきたのはバイト戦士こと阿万音鈴羽だ。
「出勤にしてはやけに早いな」
「うん、お腹ペコペコでさ。ちょっと食べ物分けてもらえないかなーって」
以前、雑草や虫が採れる所がないかとメールで聞いてきたのは冗談ではなく本気だった……?
イヤイヤまさかそんな馬鹿な話はないだろう。このご時世にそんな困窮した人間が居るはずがない。
「ここに保管してある食糧は全てラボメン専用だ。バイト戦士に分け与える物などない」
「ケチ」
「何とでも言え」
「あの時、困った時はいつでも相談しろって言ったのウソだったんだ……自刃する覚悟して恥を忍んでお願いに来たのに。
 ……うぅ」
鈴羽が顔を伏せて嗚咽を漏らし始める。そこを責めてくるのか。そこから責めてくるのか?
ついでに自刃とか物騒な言葉を安易に持ち出すな。
「な、泣くほどのことじゃないだろおいっ」
どれほど食事に困っているというのだこの女は。俺が頼みの綱と言ってもバイト代を前払いしてもらうなり方法は他にもあるだろう。
雑草を食べるくらいならゴミ箱を……想像したくないな。それを推奨するとは俺の口からはとてもじゃないが言えない。
おろおろしていると強い視線を開発室の方から感じた。
振り返るとあの萌郁が写真を撮る手を止めて俺を見ている、というより視線で責めている。無表情なのに責められている気がする。
「…………」
女の子泣かせるなんてサイテーとでも言わんばかりだ。言うまでもなくこの状況は精神衛生上非常に宜しくない。
もしこの現場をまゆりや紅莉栖に見られたら、どんな誤解が生まれるかわかったものではない。
「わ、わかったから泣くな。裏技だが俺が食料の支給を受け、一旦所有権を俺に移した後、お前に渡せば問題はない」
ソファから体を起こし、鈴羽の前まで行って慰める。泣く子には勝てないのは世の常だ。
俺一人悪者にされる訳にもいかない。それに困っている鈴羽を助ける義務が俺にはすでに生じているのだ。
「分けてくれるの……?」
「ああ、カップ麺のひとつやふたつやるから泣き止んでくれ。なんならバナナもつけてやる」
契約の履行がこの程度で済むのならば安いものだ。この状況で反故にした時の事など想像したくもない。
「ぅう…………やったあー!! 1日振りに普通の食事にありつけたー!
 おやつも付いてくるし豪華すぎるっ、やっほー!」
「ウソ泣き……だと……貴様、謀ったな!?」
「でもあたしが本当に泣いてなくて正直な所、ほっとしたでしょ?」
「う……それはまぁ。な」
後ろから写真を撮る音が再び聞こえ始める。鈴羽の涙が茶番だとわかり萌郁も本来の任務に戻ったらしい。
すっかり眠気も飛んでしまった。俺も昨日から何も食べてないし丁度いい、朝飯にするか。
「醤油と塩があるがどっちが好みだ? フォークは使うか?」
「塩で。お箸がいいな」
「了解した。ほら」
二人分の箸とカップ麺をテーブルに置き、水を入れたヤカンを火にかけて五分少々、ソファに寄りかかって沸騰するのを待つ。
鈴羽は隣でそわそわ?わくわくしながらカップ麺を見詰めている。
萌郁はまだ写真を撮っている。立ち位置を変えたり、カメラの角度を変えたりフラッシュを焚いたりとまあ忙しい事だ。
きちんと撮影用の機材を用意していれば一発で決まるというのに、明らかに手落ちだな。
「あの人何してるの?」
「以前IBN5100を探している女が居ると言っただろう。そういえば紹介がまだだったか。
 閃光の指圧師(シャイニングフィンガー)、またの名を桐生萌郁という編プロだ」
「ふ~ん」
「秋葉原の都市伝説の取材をしてるらしい……っと沸いたようだな」
俺がヤカンを取りに行く間に、鈴羽が萌郁の様子を見に開発室の方へと歩いていく。
並べられたカップ麺二つに湯を注いで蓋をする。あとはしばし待つばかりだ。

date:2010 8/3 9:01
from:閃光の指圧師
sub :なんなの!?
---------------------- 
この女の子は何を知って
るの? 岡部君はこの子
に何を話したの!?

ケータイから顔を上げると鈴羽が戻ってくる所だった。その向こうから萌郁がこっちを、鈴羽の方を見ている。
ただ見ているのではない、怯えている? メールにもあるはずの著名がない、焦って送ったのか?
「バイト戦士、指圧師と何を話してたんだ?」
「ちょっと“釘を刺した”だけ。念の為って感じかな。ん~~いい匂い。お腹鳴っちゃいそう」
鈴羽は良く解らない事をのたまって、ぽすんと再び俺の隣に座る。
「言葉の意味が解らないんだが」
「君が気にするようなことじゃないよ」
「気にするなという方が――――
「だって“君は何も知らない”んだから…………ね?」
そっと潜めた声で耳打ちされる。
「っ……」
またその眼か。威圧され思わず体を後ろに引いてしまう。時々何を考えているのか判らない。
紅莉栖にも安易に踏み込めない心の闇があるのはわかっているが、この鈴羽にも同様の事が言える。
俺の直感が正しく機能しているのならば、後者の方が危険だ。故に今回も踏み込む事を躊躇ってしまう。
「…………OK、わかった。了解だ。
 指圧師よ、バイト戦士がお前に何を吹き込んだかは知らんが、どうせ根拠のない妄想だ。気にするだけ無駄だぞ」
萌郁はしばらく俺の眼をじっと見て、嘘がないと解ったのか無表情のまま、撮影に戻った。
「出来たみたいだね。おお~」
ぺりぺりと蓋を剥がしながら鈴羽が歓声を上げる。直前の鬼気迫る雰囲気は何処へやらだ。
隙だらけのあどけない表情はまゆりよりも幼さを感じる。
「うん、おいしい! こんな美味しい物食べたの何年振りかなぁ」
本当に嬉しそうな顔をして食べている。はふはふしながら一気に流し込むかのように麺をすする。
「カップ麺ひとつでそこまで幸せになれるとは安上がりな女だな」
「高くつく女とどっちがいい?」
「他の条件にもよる。費用対効果がお互いにとってプラスで出るかどうかも重要事項だ。
 金銭や手間暇をかけた分だけ確実に高い効果が得られるのならば、誰も人間関係で悩んだりするものか」
「そっか」
にっこりと笑って、鈴羽はまた麺をすする作業に戻る。細かな具材一つ一つを摘んでは珍しそうに眺め、口の中へ放り込んでいく。
1センチ角程度しかない小さなそれを念入りに、何度も咀嚼してから名残惜しそうに飲み込む。
たかがカップ麺に感動するなんてどんな貧しい生活をしてきたんだろうか。
鈴羽の明るい性格からそれは読み取れない。時折垣間見える物騒な言動と関係があるのだろうか。
「何? 返せって言われてもお腹の中だから返せないよ」
思い耽っているうちに自分のカップ麺を食べるのも忘れ、じっと鈴羽の顔を見ていたらしい。
「……ネギがほっぺたに付いてるぞ」
「ん?」
「反対側だ」
「あ、ほんとだ」
今度は照れ笑いか。それにしても鈴羽はよく笑う。まゆりもよく笑うがぼーっとしている方がイメージ的には強い。
紅莉栖にいたっては何かと突っかかってくるから笑顔なんてほぼ見た覚えがない。
萌郁はあの通り無表情だ。メールでしか自分の感情表現が出来ていないようにも思える。
「何枚撮るんだろうね」
「さあな」
カップ麺と食後のデザートのバナナを食べ終わっても萌郁はまだ撮影を続けていた。
かれこれ30分以上になる。撮影の間隔は最初の頃よりもずっと延びて、渾身の一枚を撮る為の微調整に時間を費やしている。
萌郁が居る間はここから動けない。あいつ一人の力では無理だとわかっていても、万が一がないとも限らない。
撮影に満足したのか萌郁はケータイを片手に持ち直し立ち上がった。指圧師たる所以の指捌きが炸裂し俺にメールが届く。

date:2010 8/3 9:24
from:閃光の指圧師
sub :5100を
---------------------- 
貸してほしいんだけど、
駄目かな? 萌郁

「ダメだと言っただろう。そもそもそれは凶悪な重さだからな、お前一人では運べない」
ここに運び込んだ時も4人がかりだったのだ。細腕の萌郁一人ではぎっくり腰になるだろう。

date:2010 8/3 9:25
from:閃光の指圧師
sub :岡部君に
---------------------- 
運ぶのを手伝ってもらえ
たら、とてもうれしい。
その子と3人でならもっ
と楽かも。 萌郁

「いやいや。待てい。なぜ貸すのが前提になっているのだ! 貸さないと言っているだろうが!」
ソファから立ち上がり、開発室と談話室の境目に立つ萌郁の元へ移動する。
「……やっぱり、駄目なの」
「駄目とわかっているなら最初から聞くな」
だから貸せない、と念を押す。だいたいどうしたら自分の都合よく事実を捻じ曲げられるのか。
萌郁に出したメールも見せるだけという話だったのだ。少しだけイライラする。

date:2010 8/3 9:26
from:閃光の指圧師
sub :そんなの
---------------------- 
そんなのずるい>< 萌

その一言だけをメールでわざわざ書くのか? やるせない思いにため息が出る。
ずるいと言われようがなんだろうが貸せないものは貸せないのだ。例え泣き落としされたとしてもここは譲ってはいけない。
「いいかよく聞け。幻のレトロPC、IBN5100は、その主人としてこの俺、鳳凰院凶真を選び契約した。
 それが厳然たる事実。神ですら歪められぬ決定事項。運命石の扉(シュタインズゲート)の選択だ!
 そもそも契約において、俺は一時的にコレの力を借りているに過ぎない。使い終われば、元の所有者に返さねばならない」
所有者は誰か?……だと? いちいちメールで聞くなというのだ。目の前に居るんだぞ?
どこか遠くにでも居るのなら話はわからんでもないが、今、此処に俺は居るというのになぜ眼を見て話さない?言葉を使わない?
「教えることは出来んな。守秘義務も契約に織り込み済みだし、IBN5100を狙う連中から元の所有者を守る為でもある」
萌郁が駄目だと言ったものを多少強引に取りに来ている以上、もしもの事を想定すべきだ。
ルカパパに対し、この萌郁が捨て身で色仕掛けをしないとも限らない。
妻子ある身かつ神に仕える宮司でもあるルカパパがそんなものに屈するとは到底思えないのだが、
仮にそういうことになってしまったら、IBN5100は俺の手から一瞬にして消え去ってしまう。
「………………」
またメール。所有者が駄目ならあった場所か。萌郁を見ると何も言わずにうなだれている。
何も言わずにという表現は語弊があるな、メールでその意思は示している。萌郁が粘るのにはそれなりの理由があるはずだ。
俺がIBN5100を手にするのが運命で決まっていたのだとしても、他の凡百の一般人の立場であれば天文学的な確率なのかもしれない。
萌郁はその千載一遇のチャンスを目の前にして手段など選んでいられない所を今のところはまだ、言葉による交渉を選択している。
俺の考えすぎ、なのだろうか。
「……俺もそこまで鬼ではない」
ふと、自分に向けられているもうひとつの視線が気にかかり振り返る。鈴羽が静かな眼差しを俺に向けていた。
殺意は、ない。殺意なんて言葉が浮かぶ事自体おかしい気はする。鈴羽は俺と目が合っても何も言わない……いや、何も言えない?何故?
数瞬ののち、先程のやり取りと疑問が繋がった。鈴羽は何かを知っていて俺に知られないようにしている。
そんな確信が、ある。
隠し事が何かは教えられないが、何かがあるのを知らせる事によって俺の注意を促している……そう考えるのが妥当だろうか。
「…………岡部君?」
鈴羽の意図は解らないが、萌郁に返答する前に少しだけ考えてみよう。
所有者を教えれば、所有者との直接交渉が可能となり、IBN5100があった場所もバレる。
あった場所を教えればそこに行き、今回の場合そこに所有者も居る訳で結局交渉されてしまう可能性がある。
かといって誤情報を混ぜれば齟齬が出来てしまい、その穴埋めをする為に嘘で塗り固めるハメになる。
それは編プロというマスメディア相手向きの対処法ではない。ならば。
「柳林神社だ。巡り巡った末に俺は所有者とのコンタクトに成功し、その場所でIBN5100を受け取った」
もし萌郁が“柳林神社はIBN5100の引渡し場所で、鳳凰院凶真は元々あった場所を知らない”と誤認しても俺は何も悪くない。
実際引渡しが行われたのはそこなのだから、俺の言葉の中に嘘はない。
「所有者とIBN5100に関してそれ以前のことは俺も知らん」
俺はルカパパ“より前の所有者”が誰なのか何も知らない。同様に、柳林神社に奉納される前のIBN5100のありかも知らない。
故にこちらに関しても何の嘘もない。相手がどう受け取るかは知らないが。
「…………」
案の定、萌郁は一層落胆した顔を見せた。良心が痛む気はするがここは我慢のしどころだ。
秘密を守る為には仕方がないのだ。非人道的な実験を平然と行っているSERNが相手、戦力になり得るものは確保しておかなければ。
「そう落ち込むな指圧師よ。俺は俺の目的の為にコレと契約した。
 その目的を果たした後ならば次はお前が契約できるように所有者と交渉してやってもいい」
それは即ちSERNとの最終戦争(ラグナロック)を終えた時であり、世界の命運が決まった後である。
「そして最終戦争(ラグナロック)が勝利の終わろうと敗北に終わろうと、この鳳凰院凶真の人生は、その頃にはもう――――
 いや、今の言葉は忘れてくれ。そんな先のことなど、今は考えている場合ではないからな。そうさ、そんな、先のことは……」

date:2010 8/3 9:29
from:閃光の指圧師
sub :本当に?
---------------------- 
わかった。使い終わった
ら教えてね、絶対だよ!
 萌郁

むう……人が感傷に浸っているというのに。空気の読めない女だ。
「ああ。使い終わったら考えてやる」
――――と、IBN5100の入手経路は俺の鮮やかな機転によりうまく隠匿したものの、
その直後のダルとまゆりの迂闊な発言により電話レンジ(仮)の機能は萌郁に知られてしまった。
鈴羽はダルと入れ替わるようにラボを出て行った為、まだ知られていない。この時点では。
ラボメンに引き入れる事で萌郁の口封じには一応成功したと言える。俺の迫真の演技と発言の有効性は今後を見ていくしかない。

「迂闊な真似はするな馬鹿者ッ!
 ダルの発言をどう取ろうとお前の勝手だが、行動を起こされては俺もかばいきれん。お前なら解るな?
 知らなくてもいいことまで知られてしまったのは俺の責任問題でもある。
 しかしだ指圧師よ、お前からこの事実が露見すればお前の周囲の人間にまで迷惑がかかる。
 故にお前のとれる行動は二つに一つ。自ら死を選ぶか。それとも俺達の仲間となりこの秘密と生死を共有するか。
 好きな方を選べ」

“FB”という単語は萌郁にとって一つのキーワードだ。あの反応の仕方、何かがある。
俺の言葉の真偽を確認する為にメールを送ろうとしたほど。何とか直前で制止出来たものの、このまま安心していいのかは疑問が残る。
いや、そもそも信頼なくしてラボメンは成り立たない。理由はどうあれ今は仲間なのだから信じてやるべきなのかもしれない。
それでもまだSERNへハッキングした事については話す時ではない。
あれほどの事実を仲間にしたばかりの萌郁に伝えたとしても、その重圧で押し潰されてしまうだろう。
電話レンジ(仮)についてもこの数時間で改良が行われた。
頼れる右腕(マイフェイバリットライトアーム)ダルの名案により、今後は電話レンジ(仮)専用ケータイへメールを送れば、
そこから設定したアドレスへ転送されるようになっている。
更にレンジの扉が取り払われる事でシームレスに放電現象を発生させられるようになり、Dメールの送信が非常に楽になった。
改良後の稼動テストも成功し、それを目の当たりにした萌郁もDメールの凄さに驚きの表情を隠せなかった。
ちょっとだけ優越感に浸る。その後重役出勤してきた紅莉栖も揃った14時過ぎから、予定されていた第71会円卓会議は執り行われた。
議題は“過去を変えられるか?”、Dメールの仕組みはともかくとして可能性について考えた訳だ。
わかりやすい結果が得られてかつラボの利益にも繋がるという事で、宝くじのロト6を俺が提案したわけだが――――
「……信じらんない」
全く同意見だ、俺にも信じられない。今はベンチに座り、鈴羽にその顛末を話し終わった所だ。
ラボの最重要機密をべらべらと話してしまうほど俺は気が動転していた。
俺らしくもなく心の間隙を彼女に突かれ……いや、埋めてもらったと言ったところか。
一通り話したおかげで頭の中が整理されたのか、心は落ち着きを取り戻している。
鈴羽と談笑していた小動物こと天王寺綯には悪いが、火急の用件があるという事で追っ払っ……もとい、お引取りを願った。
あとでミスターブラウンに何を言われるかわかったものではないが、今の俺はそれどころではない。
明らかに異常な体験をしているのだ。これが夢や幻覚や勘違いでなく事実なら。
「そんなの、聞いたことないよ。ねえ、ホント? ホントのこと言ってる?」
「当たり前だ。俺達は紛れもなくタイムマシンを開発した。そして過去を変えることが出来たのだ……!
 我等の偉業を否定することは誰にもできない。そう、誰にもだッ!」
そう言い切らなければ、否、そういいきれるだけの事を俺達は成し遂げたのだ。何故かそれを認識しているのがこの俺一人なのは気にかかる。
俺だけしかその事実を知らないというあの疎外感、浴びせられる視線の気持ち悪さには耐え難いものがあった。
「あーもう、そういうことじゃなくて……っ」
「では何だと言うのだバイト戦士っ」
鈴羽は苛立たしげに頭をかきむしったかと思うと、すぐに唇をへの字にして考え込む。
こいつは何かを知っている、直接尋問でも出来うる腕力でもあればそれに任せて首を締め上げていたかもしれないが、
それが現実的ではない事を俺がこの身をもって知らされている。可能なのは開示要求のみ。
「……ジョン・タイター」
ぽつりと、何かを決心したような眼で鈴羽が呟いた。
「ジョン・タイター……@ちゃんで話題のタイムトラベラーか?」
「君が言ってることがホントのことかどうかあたしには判らない。
 けど、君と同じタイムトラベル経験のあるそいつなら、君の欲しい答えを持ってるかもしれない」
「なるほど……確かにお前の言う通りかもしれん! いや、それで間違いない!」
あのDメールが俺のケータイに送られた結果、過去の俺はロト6を間接的に購入し、過去は変わった。
何故ルカ子に買うよう頼んだのかはわからんが、そのルカ子が番号を間違えた所為で当たったのは3等の70万円ではなく4等、5000円だった。
それが今回の結果だ。また、紅莉栖が“セレセブ”という単語に反応したのはDメール送信の前後で変わらなかった。
一番重要なのは俺が“Dメールを送った”という事実だけが消え去り、“俺だけがその事を覚えている”という事だ。
この違和感の正体を一刻も早く払拭したいという衝動に駆られる。タイターに連絡を取らねば。
思えばIBN5100の件も奴に聞いたからこそ道が開けたのだ。今回もきっとヒントをもたらしてくれるはず、そう信じたい。
俺は急いでケータイを取り出す。
「待った」
「ああ、俺――――なんだバイト戦士、俺は今忙しいところなのだ」
「自分の用事だけ済ませて放っておくなんて都合よすぎない?」
「う、……」
「焦らなくてもいいよ、掲示板にあったアドレスにメールするんでしょ。一旦落ち着いて、頭の中を整理してからの方がいい」
言われなくてもそれくらいわかっている。
「その間にさ、ちょっとだけあたしの話も聞いてくれると嬉しいんだけどなー」
「……アドバイス料の請求か? いいだろう」
ケータイをポケットにしまい鈴羽の方を向く。彼女はベンチの背もたれに寄りかかり、真っ青い空へ視線を移していた。
俺もそれに倣って空を見上げる。午後のまだ容赦ない日差しの眩しさに目を細める。
ベンチは日陰になっているとはいえ、アスファルトからの輻射熱はまだまだ馬鹿にできない暑さだ。
「もうちょっとしたらここを離れなきゃいけないんだ。だ・か・ら・未練を残したくないんだよね~」
鈴羽は物言いたげに視線を空から俺へと下ろす。
「う……」
そっちの話か。この何日か適当に誤魔化していたが、やはり答えは出すべきなのだろう。考えていなかった訳ではない。
俺は単純にYES/NOで返せるほど恋愛経験が豊富でもないし、鈴羽の事をまだよく知らないのだ。
「あ、もしかして意外と真剣に悩んでくれてる? 意外と可愛いところもあるんだ♪」
「なん……だと……」
この俺が可愛いだと……否、断じて否。この狂気のマッドサイエンティストに可愛さなどあってたまるか! それよりもだ。
「離れるというのは?」
「東京には父さんを捜索しにきた。9日にね、オフ会があるんだ。その日を逃すともう無理。
 行かなきゃいけないところがあってね、これでもあたし多忙なんだ」
「そのオフ会とやらにお前のおやじさんが来るのか? 待て、それ以前に居ないということは行方不明なのか?」
「…………」
沈黙は肯定。おいそれと言えない事情があるのだろう、鈴羽がばつが悪そうに顔色を暗くした。
「父さんがそこに現れるのだけは解ってる。でもね、実際会ってもわからないかもしれないんだ。
 何年も経ってるし、見た目も変わってるかもしれない…………
 もし会えなかったり、判らなかったりしたらその時はしょうがないって、諦めるしかないかな」
鈴羽の声が次第に小さくなっていく。自信がないのだろう、それでも最初で最後の望みに賭けている。
その為だけに単身この東京に来たのだとすれば、それはそれは心細かったに違いない。
食べ物に困っている所からも生活費を相当切り詰めて無理をしているのだろう。
「諦めていいのか?」
「……え? そ、そうだよね、まだそうと決まった訳でもな「違う。諦める必要などないと言っているのだ、バイト戦士」
決して掴む事のできない路面上の逃げ水が如く、俺はゆらりとベンチから立ち上がる。
「貴様はついている、いや……ここはあえて不幸というべきか。
 この狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真に弱みを晒すとは蛮勇はなはだしいぞ!」
「な、なにをするつもり……?」
警戒して視線を強める鈴羽へと勢い良く振り返り、俺は口上を述べ見得を切る。
「フッ、決まっているではないか。貴様が父親に会えなかった場合、その傷心を利用してDメールをお前に使わせるのだ。
 そしてお前と父親が会えるように過去を改竄してやる。
 俺は今Dメールの検証実験のデータを少しでも多く求めていてな、その生贄の子羊にお前は選ばれたわけだ。
 拒否権などは無い、すでに貴様はDメール被験者候補としてアカシックレコードに登録されているのだからな、ククク……
 この俺を非道と罵るならば勝手にするがいいッ、しかし!
 運命石の扉(シュタインズゲート)の選択には何人も抗うことはできないのだ! フゥーハハハハ!!」
両腕を広げ、白衣をなびかせる。天に高らかに響く笑い声。決まった。
最高に今俺はマッドサイエンティストをしている。否、俺こそがマッドサイエンティストなのだッ!
「でも……でも、前提が間違っていれば抜け道なんて幾らでもあるっ!」
鈴羽がビシィッと俺の鼻先に人差指を突きつける。
「な……に……」
この展開は予想していなかった。高揚感をたったひと突きで瓦解させられ、思わずたじろいでしまう。
「岡部倫太郎、いや、マッドサイエンティスト鳳凰院キョーマ! 君はその実験において一番重要なことを確認していない。
 あたしが、父さんのメールアドレスやケータイの番号を知っていると思っているのか!」
「まさか……」
「そう、そのまさかだよ」
とても寂しそうな、微笑みだった。
限界近くまでヒートアップしていたテンションが一気に下降する。何も返せる言葉が浮かばなかった。
力が抜けてそのままベンチにどさっと腰を下ろす。それでは、何の意味もないではないか。
「……君ってさ、やっぱりいい奴だよね。心配してくれてサンキュ」
「なな何を馬鹿な、俺は狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真だぞ!? そんなことなどしてたまるかっ」
「ほらほら、照れ隠しも程々にしとかないと愛想尽かされちゃうよ」
「お前にか」
「そうそう」
「なら別に問題ないな」
このやり取りが嫌という訳ではない。慣れてきたというべきか。鈴羽が何処まで本気か考えない方が気は楽だ。
でもそういうわけにはいかないのだろう。答えは出さなければならない。
答えを出さなかったとしても、あと数日でお別れが待っている。鈴羽が目の前から居なくなる。
その事に対してまだ、実感があまりない。
「またそういうこと言う。マッドサイエンティストなら好意を持ってる相手をうまく利用するくらいしなきゃ。
 それとも今みたいな失敗が怖くてもう何もできないのかな?」
「ほう、言うではないかバイト戦士、この鳳凰院凶真を挑発するとはいい度胸だ。そんなにご希望とあらば今一度貴様を利用してやろう」
まったく、口の減らない奴だ。こうなればもののついでだ、聞いておきたい事は機会を逃さず聞いておこう。
「バッ、バカ! ちょっ、近い近いっ」
鈴羽の耳元にぬっと顔を寄せ、囁くように問いかける。
「IBN5100を使っているデータベースをハッキング中に見つけた。
 これは運命石の扉(シュタインズゲート)の選択としか思えないのだが、お前はどう思う?」
「…………シュタインズゲートがなんなのかはわからないけど、おそらくSERNの最重要機密がそこにある。
 もしアクセス出来るなら、SERNに対して唯一無二の切り札になるかもね」
考える事は同じか。いずれにしろあそこには到達せねばなるまい。
ダルに電話レンジ(仮)を改良する任務がすでにある以上、Dメールの検証実験との同時進行は困難である。
奴一人だけに昼夜を問わず過酷な労働を強いるのも当然無理な話だ。
「防御が手薄なのに結構無茶してるよね、君達」
窓は閉まっていてもさっき聞いたように少し大きな声で話すだけで中の状況はだだ漏れ、ドアの鍵はかかっていない日の方が多い。
セキュリティは穴だらけだろう。危機感の薄さは鈴羽に指摘されるまでもなく明らか、もう少し本気で考えた方がよいのかもしれない。
常にラボの財政は厳しくつぎ込める資金はそれほどない、個人の意識レベルを引き上げるのにも時間がかかりすぎる。
それに急にそんな対策をし始めたら、俺達の事を小馬鹿にしているあのミスターブラウンでさえ本気にしかねないのだ。
故にこのまま突き進むという選択肢しかない。と、思う。
「ああ、もう引けない所まで来ている。現実逃避をしながらでも前に進むしかない所までな。
 だが最後の最後に勝利を収めるのは俺達だ」
ある意味泣き言だ。紅莉栖やダルにはとてもじゃないが言えないのに、どうして鈴羽には話せたのだろう。
「じゃああたしも覚悟決めないといけないかな」
笑顔の鈴羽にぽんぽんと肩を叩かれた。
「何故お前が決めるのだ」
ベンチから立ち上がると鈴羽はストレッチを開始する。それはもう勢い良くと言う表現するしかないくらい元気に。
何かを、振り切るかのように。
「多分戦えるのあたししか居ないし、もしもの時はすぐ呼んでよね」
一人前の戦士、鈴羽は自分の事をそう言っていた。出来ることなら彼女に頼るような場面にはなりたくないものだ。
「……そうだ」
俺はこの時、何を期待していたのだろう?
「バイト戦士。お前は今日の午前中、カップ麺を食べたか?」
やっと大切な事を思い出したかのように、俺は彼女に問いかけていた。



「え? 食べたのはカップ麺じゃなくておでん缶だったよ?」



その日の夕方、俺はジョン・タイターから“救世主”などと呼ばれることとなる。


  • 最終更新:2019-03-04 17:14:07

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