replay10

-----------------1.0***** 





あの後しばらくしてからラボに戻り、そこから丸一日以上、昼夜を徹してタイムリープマシンの開発に取り組んだ。
多少元気を取り戻した鈴羽に確認した所、かろうじてあの隠蔽能力は使えるらしい。でもそれも安定していない。
時々見えている可能性があると言うがどうしようもない。フェイリスの事についてはあえて言及しなかった。
痛々しい彼女を見て追い討ちをかけるなんてとても俺には出来ない。
黙っていたのにはきっと理由がある、ならば自分から話してくれるまで聞かなくてもいいという判断をした。
その代わりに事情を知るフェイリスにラジ館屋上の情報について緘口令を敷いてもらった。
というより頼んだ時には既に敷かれた後だった。鈴羽から真実を聞いたあとすぐにそうしていたらしい。
全く抜け目がない。流石に無理だと思いつつ聞いたのに、地域限定とは言えあっさり出来てしまう彼女の“力”の行く末が恐ろしい。
壊れたタイムマシンはそのままにしてある、直る可能性は最初からゼロだからだ。
ダルならもしかしてという事も一度は考えたが、あれを作ったのは未来のダルであり経験や知識の差は埋めようがない。
鈴羽にはああ言ったものの、完全に直せる保証がない。更にこの世界線ではタイムマシンでの跳躍は失敗する事が確定している。
厳密には分岐点が判明した後の跳躍となるが、分岐点が判明しなければ跳べない訳でそれでは手遅れになってしまう。
仮に分岐点が判明する前に完全に修理できたとしても、跳躍時に何らかの予期せぬ不具合が発生するのだ。確実に。
矛盾を克服できる手段はDメールかタイムリープ以外にはない。
この世界は“秋葉原一帯に落雷が夜半から未明にかけて23回”という馬鹿げた異常気象さえ引き起こす強引さで俺の行く手を阻む。
生半可な手段では収束事項を覆せない。
「岡部、そこで最後」
組み上げの最終段階、紅莉栖からラストコールがかかった。紅莉栖もダルも手を休めているから俺の一手が本当に最後らしい。
面倒な最終調整もリフターが判明していたおかげで夜の内に済ませる事が出来た。寝食を忘れて何かに没頭したのは何年振りだろうか。
感慨に耽りながら、左手と右手に持ったケーブルのコネクタ部分を、慎重に、注意深く、ゆっくりと近づけていく。
…………これで完成だ。なんとか間に合った。本当に間に合って良かったと内心安堵感を感じつつ、
祈るような気持ちでその瞬間を、今、このすぐ目の前で――――カチリと。
コネクタが接続された音が聞こえたのか聞こえなかったのか。俺の視界は真っ白に染まった。
「――――部、岡部!」
鼓膜を刺激した誰かの声に自分が腰を打ちつけた痛みを理解させられる。両手からケーブルが離れていた。
「ちょっと岡部、ねえ、大丈夫?」
「…………ん、あ、あぁ。大丈夫だ」
かろうじてそれだけを答える。モスキート音の様なソプラノの耳鳴りが脳内を蹂躙している。
何をしていたんだったか、数秒前すら思い出せない。寒くも無いのに頭の先から足の先までブルブルッと痙攣してしまう。
「橋田! なんで電源繋いでるのよ! 危ないからダメって言ったじゃない!」
「え? ごめんごめん。もしかしてさっきのバチッて音」
「岡部がケーブル繋ぐ瞬間に放電した音よ」
「オカリンごめんな……って。おーい、オカリン? ひょっとして腰抜けた?」
自分の手をじっと見る。ぎゅっと握ろうとするとその通りに動く。若干痺れているのか、ぴりぴりとした痛みが走る。
何でそんな当たり前の事を確認したのだろうか。二度三度頭を振りよっこらせと立ち上がる。
「これしきのことでそんなこと、あるわけがないだろうが」
耳鳴りはおさまっていたのにぐわん、と視界が回った。よたよたと足踏みをして何とか倒れるのだけは耐える。
「壊れなかったかしら。橋田もチェック」
「オーキードーキー」
ドクペでも飲んで落ち着こう。放電の閃光で一時的なてんかん症状を引き起こしたのかもしれん。手の痺れはまだかすかに残っている。
「オカリン大丈夫~?」
「ああ。たいしたことはない」
まゆりに軽く応えて冷蔵庫を開ける。飲みかけがあったと思っていたが記憶違いか。新しいのを取り出して開栓する。
…………ようやく、一息つけたような気がした。何気なく室内を見回す。
開発室でダルと紅莉栖が忙しそうに電話レンジ(仮)――もうタイムリープマシンというべきか――に異常がないか確認している。
本体である電子レンジの下には三段重ねのクッション。視線を右に振ってぐるりと玄関まで。開いた窓から見える外の蒼さに目を細める。
そしてキッチンを通り過ぎてソファに座るまゆりへと視線を落とす。不思議そうにぱちぱちと瞬きをするのを見て、思わず鼻で笑う。
何で笑われたのか解らないのだろう、今度は小首をかしげた。こうして見るとリスのようにも見える。
なんだろう、この感覚は。
「大丈夫そうね。替えが利かないんだから危ないことは避けないと」
「んだな。でもまああのくらいのことで壊れるわけがないお。オカリンがビックリしすぎなだけ」
最終チェックも終わったのか、ダルが額の汗を首にかけたタオルで拭い、紅莉栖は安堵のため息を吐く。
若干の空白。数秒の間に耐え切れずについ訊ねてしまう。
「ということは助手よ、つまり……」

「完成よ」

「……………………」
「…………」
「………………」
きっぱりとした紅莉栖の宣言に対し誰も喜びの声を上げなかった。徹夜明けで疲れているといえばそうだ。
作る過程に入れ込みすぎて、完成と同時に熱が冷めたのかもしれない。
しかし世界初、歴史に名を残せる偉業を達成したというのに、このテンションの低さはどうしたものか。
俺の中では喜びよりも安堵感の方が大きい。間に合った。ただその一言に尽きる。あくまでも俺にとっての本番がこの先に待ち構えている。
富士山に例えるなら八合目、頂上までのあと一息を残して短い休憩に入ったところだ。
「では説明を頼むクリスティーナ」
「いつものオカリンだとここで正式名称を決めようとか言い出すと思った件」
華麗に次のステップへ話を進めようとしたらダルが水を差す。
「ああその件か。もう飽きるほどタイムリープマシンタイムリープマシンと呼び続けていたからな、タイムリープマシンでいいだろう」
無論『天国への弾丸列車(ヘヴンリィ・エクスプレス)』という真名は決定済みだ。そして真名は簡単に他人にひけらかすものではない。
やるべき事は先に片付けておく。その後のわずかな休息でだべり合うのなら問題ないだろう。
「なんという投槍」
「別にいいじゃない。シンプルイズベストよ。ね、まゆり」
「うん。かわいいのも正義だけどね、わかりやすいのもポイント高いと思うなー」
前段と後段の繋がりが良く解らないものの、まゆりも俺の意見に反対する気はないらしい。
ということで電話レンジ(仮)の正式名称は『タイムリープマシン』で確定した。
「つまらん横槍が入ったがまあいい。では改めて助手よ、タイムリープマシンの仕組みについて解り易くレクチャーしてくれ」
「はいはい。助手じゃないって何度言っても解らない頭の悪い鳳凰院さんには難しいかもしれないけど善処してみるわ。
 そこのホワイトボードこっちに持ってきて」



――――要約すると、記憶をデータ化してリング特異点を通過させ過去へ跳ばす装置との事。
技術的な細かい話は興味深くもある。しかし俺にとって重要なのは“使い方”だ。
起動させる前に電話の転送先(アドレス帳)と時間(秒単位)をセット、そして見た目がチープなヘッドギアを被る。
性能重視でデザインにこだわる余裕はなかったので、今後がもしあればその時の課題としよう。
下の42型ブラウン管、即ちリフターに電源を入れ準備が整ったらエンターキーでタイムリープマシンを起動。
まずヘッドギアから脳内の記憶データをスキャン、バッファリングに約45秒。
スキャン終了時間を想定して電話レンジ(仮)でおなじみのカー・ブラックホール生成機能も自動起動。
放電現象が始まる頃にはスキャンも終わり、あとは電話をかければ転送用ケータイに着信と同時にSERNへ記憶データが転送される。
LHCで同様にタイミングを合わせて生成されたブラックホールでそれを圧縮しタイムリープマシンへ返送、
そのままリング特異点を通過させて指定した過去のケータイへ転送する。
電話をかけてから後にかかる時間は0.1秒にも満たない。即ち最短45秒程度でタイムリープは完了する。
Dメールの時は放電現象さえ確認できれば送れたから最長でも20秒あればよかった。タイムリープマシンはその倍かかるということだ。
性能が飛躍的に向上したのだから止むを得ないのかもしれない。
それに万が一、過去の自分が電話に出なかった場合、かけ直しが必要になるわけだが、その点についてダルはこんな事を言っていた。

「LHC勝手に使ってバレないなんて不可能、頭の中お花畑過ぎるだろ常考。
 タイムリープマシン起動と同時にSERNの全システムに緊急ロックがかかるようにしてる。LHCの起動だけは誰にも止められないお。
 ただし正副予備3系統の電源全て物理的に切断されたら流石に終了のお知らせ。
 まあそれも配線図見るとそんな簡単には出来ないと思われ、最高レベル判断が必要になるし落ちる時はLHCの関連施設全部だからな。
 死なばもろともだお。つーことで、今日以降を指定するならそういう電話かかってくる可能性も知ってるし、大丈夫じゃね」

一度使ったら成功するまで使い切るしかないと言う訳だ。安全策としてはこれ以上は望めないだろう。
現時点ではこれがベスト、これが最善。最高。ここまで出来れば上等だ。
「まゆしぃにはよくわからないけど、すごいものができたんだねー」
「……そうね。私達、ひょっとすると、とんでもないものを作っちゃったかもしれない……」
とんでもないもの、その表現は間違っていない。そもそもこんな貧乏サークルのラボでここまでの物が出来てしまった事が奇跡だ。
思い返してみればDメールを送信できる時点でそうだった。紅莉栖と逢えたおかげで動作原理が解明できたのだ。
更に遡ればダルと電話レンジ(仮)を作っていなければこの瞬間には届かなかっただろう。人生は奇跡の積み重ねとは良く言ったものだ。
「んでこれどうすんの?」
「作った……作れてしまったと言った方がいいかもしれない」
ダルの至極もっともな質問を聞いて、またぽつりと紅莉栖が呟いた。
「私達の手に負える代物じゃないのは確かよ。一番無難なのは研究機関に譲渡して、国家プロジェクト扱いにしてもらうことね」
仕組みを理解し、作った本人だからこその意見なのだろう。世界を変える――ひいては支配をも可能とする――夢の機械。
だがそれだけに扱いが難しい。
先ほどのレクチャー中にも問題となった“今の自分がどうなるか”については予測が出来るだけで実際は“やってみるまでわからない”。
紅莉栖の意見は正しい。正しいが本音ではない。
「国家プロジェクトとか言われても実感が湧かないなあ。結局それっぽい結果確認してるのオカリンだけだしな」
この世界線のダルはDメールの検証実験にも参加してなかったのを忘れていた。検証結果を知っているのは紅莉栖と俺だけ。
ただ実際に世界を変えてしまうような実験については俺しか知りえない。
「まゆしぃもわからないよー」
今頃になって気付いたが、まゆりにばらしてしまって良かったのだろうか……こうなってしまっては手遅れだし仕方あるまい。
「いや、まゆ氏はなんも手伝ってないからっしょ?」
「あ、そうだったね。えっへへー」
「岡部の意見は? ちなみに鳳凰院じゃなくて、岡部の意見ね」
三人の視線が俺に集まった。普通に考えれば動作テストをして検証を行う。
そのあともし不具合が見つかれば取り除いて修正、改良が可能ならまた検討して実行に移す。
一般にPDCAと呼ばれるプロセスサイクルに則るスケジュールを組む事になるが……
「今は使わない」
淡々と事実のみを伝える。普通に考えればそうなる。しかしおそらく、近いうちに使わなければならない。
それが何日後かは判らないものの、いつどうなってもおかしくない状況には違いない。
「今は……?」
「なんだ、使いたくないのか?」
怪訝な顔をする紅莉栖へからかうように問いかける。
「理論上はそう動くように正しい構成にした。でも現象の全てを解明できたわけじゃないから」
「危険だ、と。自分のした仕事に自信が持てないのか?」
「そういうことを言ってるんじゃない。親殺しのパラドックスは克服してるから因果律の崩壊は起こせない。
 でも使用者本人の安全は使ってみるまで100%そうだとは言い切れない」
「人類初の試みだしな。Dメールの時と違ってタイムリープだと記憶操作紛いのことするわけだし人体実験になる罠」
確かにDメールでは指示を出すのみで受信者に直接何らかの影響を与える訳ではない。
しかしタイムリープは受信者の脳に直接電気信号として記憶データを送り込む。未来の記憶を上書きするのだ。
それは強制的であり、受信者の意志など無関係に行われてしまう。しかも一度上書きされるとやり直しが利くものではない。
「転送中に何らかの要因で破損してしまった記憶データが、受信者の脳に叩き込まれて深刻な障害を引き起こす。
 最悪そういった状況も起こりえるということか」
その場合、過去の状態が変わった事によって現在の俺はどうなってしまうのか。
俺にはリーディング・シュタイナーがある。もし過去改変が起こればそれを感知してこの記憶を継続できる。
少なくとも俺の記憶はタイムリープの前後で生き残れるはず。
だが、移った先の肉体――主に脳――の状況によってはその瞬間に失ってしまうかもしれない。
そもそもこの能力のメカニズムが全く解らない。それこそ精神論、記憶が肉体と魂のどちらに依存しているかなんて誰にも判らない。
魂に肉体の記憶がフィードバックされるのか、その逆なのか。意志まで持ち込み始めたら水掛け論になってしまう。
結論なんて出せる訳がない。
「あくまでも可能性の話ならありえるわ」
もし失敗すれば、という話を紅莉栖は否定しなかった。
「グロは勘弁だお」
「過去へ跳ばすのは電気信号、デジタルデータだけ。だからゼリーマンになんかならないわよ。
 別に壊れたデータを受信したからといって頭が爆発したりもしない」
それもそうだな。ダルの不安?懸念?は杞憂にすぎない。しかし人類史上初めての試みである事に違いない。
前例はない。つまり安全性は一切確認できていない危険物と評されても仕方ないだろう。だが時が来れば使わざるを得ない。
元より使う以外の手段は残されていないのだから。彼女達と同じように、今度は俺が命を賭ける番だ。



その後からあげにタイムリープさせるだの観測者が何だのとやっているうちに、内輪で宴会をやろうという話になった。
完成したものの奥歯に物が挟まったような状況になってしまったし、根を詰めすぎて流石に疲れたからだろう、
パーッと憂さを晴らしたいという気持ちもあった。誰も反対はしなかった。
ダルにピザの注文を任せ、俺と紅莉栖でお菓子などの買出しに出発する。まゆりはどこか寄る所があるらしい。
下のブラウン管工房を覗くと珍しく“すぐ戻ります”の札が掛かっていた。バイト戦士は休みか。あの後、彼女には会っていない。
タイムリープマシンの完成こそが彼女の全てを叶えるものだったから、ラボから一歩も出ずにひたすら作業をしていたのだ。
そういえばどこで寝泊りしているかまでは知らなかったな。ただ飯が食えるとなれば嬉々として参加してくるはずだが……むう。
流石に公園のブルーシートはないと思う、橋の下とか、実は柳林神社の境内とか、ワンルームかもしれないが、探す宛もない。
ケータイも持っていないし……! まさか、いや、流石にそれはないだろう。
「なにぼーっとしてんのよ」
「ああ、ちょっとな」
それだけは絶対にないはずだ。駆け寄って紅莉栖の横に並ぶ。あんな顔をする人間がそんな選択をするはずがない。
そのうち匂いにでも釣られてくるだろう。そう思い、アキバの数少ないスーパーへ向かう。
昔は電気街、今は萌えの聖地として君臨するこの地には元より食料品店が少ない。
「岡部、駅前寄っていかない?」
「別に構わんが、買い忘れた物でもあるのか?」
思いの外時間をかけて買い物を済ませ、万世橋まで戻ってきた所で紅莉栖が唐突に寄り道を提案してきた。
「カレーパン。買っていこうと思って」
買い出しに出た頃の不安な気持ちはいつの間にか霧散していた。どことなく楽ですっきりとした気分、あとは待つだけという安心感。
でもそれ以上に何かある気がして、ふと、あれほど長く続いていた頭痛が止んでいるのに気付いた。
きっとストレスの原因が解消されたからだろう、今日は久し振りに良く眠れそうな気がする。
「助手にしてはいいアイデアだ。グッジョブと言っておこう」
「岡部がほめるなんて珍しい。ていうかそんなことでほめられてもね」
駅に寄る為、橋を渡って最初の十字路を右に曲がる。
「素直に喜んでおけば可愛げがあるものを。どうしてお前はそうツンデレなのだ」
「だっ誰がツンデレかっ!」
その声に、周囲を歩いていた人が何事かと目を向けてくる。それに気付き、紅莉栖は顔を赤くしてうなだれた。
しかしものの数歩で立ち直りまた俺を見詰めてきた。
「そうだ、今のうちに言っておくわ」
「なんだ?」
「ありがとう」
「ぉ、おお……?」
あまりにも素直な態度に不覚にもどぎまぎしてしまう。
素直になった方がいいとは確かに言ったが、あの紅莉栖が即実行してくるとは思わなかった。
「あんたがあのまますぐ実験を継続していたら……私、止まれなかったと思う」
完全に虚を突かれた俺がおかしな相槌を打ってしまったのに、紅莉栖はそれに触れもせず言葉を続けた。
「“今はしない”とだけでも言ってくれたおかげで、冷静になれる時間が取れた」
予想した通り彼女は実験したかったのだ。頭では解っていても本心は違うなんて事は幾らでもある。
α世界線でタイムマシン研究を続けてしまった彼女はきっと、誰にも止められなかったのだ。
取り返しのつかないような事も沢山して、止めるに止められなくなったのだろう。
途中で投げ出して破棄すれば、そこまで積み重ねてきた犠牲を含めた全てを無駄にするのと同意義だ。自らの人生の否定にもなる。
そんな道を彼女が選べるはずがない。
「やっぱりどこか研究機関に預けた方がいい。私達じゃ思いつかない方法で、誰も傷つけずに検証や改良も出来るかもしれない。
 危険を冒してまで実験を続ける必要はないと思う」
「紅莉栖……」
今度は理想ではない、建前でもない。しっかりと考えて導き出した紅莉栖の本心。
心のどこかで今も研究や実験を続けたいという思いはあるはずだ、だがそれよりも俺達仲間の安全を彼女は選んだ。
それは即ち彼女にとって俺達がそれだけかけがえのない存在という事。
ゲスト扱いなんて最初からしていなかったが、なんだ、紅莉栖自身もそう思ってなかったんじゃないか。
「……そうだな。俺もラボメンの誰かが傷つく所など見たくはない」
そこには同意する、けれど公表も譲渡も実際には不可能だからそれについては何も言わない。
「ただ仮にそうするとしても譲渡先の選定には途方もない時間がかかるな」
「そうね、簡単に口外できる内容じゃないし。ものがものだけに慎重に慎重を重ねて吟味しないと。
 本当に信用の置ける所にしか頼めない」
政府の機関だからといって信用できる訳ではない。SERNの、その支配者たる300人委員会の魔手はどこまで伸びているか判らないのだ。
「ふむ、この鳳凰院凶真にも闇のネットワークがあるが曲者揃いでな、真っ当な人脈などないのだ。残念だったな」
「友達もそんなにいないくせに無理しなくていいわよ」
「今日のお前が言うなスレはここでいいのか?」
「くっ……確かにこっちに帰ってきてからはすぐに会える子はいないけど、いないわけじゃないんだからな!」
「ではお互い様ということだ、自縄自縛もいいところだぞクリスティーナ」
さっきのおしとやかさはどこへやら、顔を真っ赤にして必死に噛み付いてくる紅莉栖を軽くあしらう。
強情を張るのはどっちもどっちって事らしい。こいつはどう思っているか知らんが、このやりとりは嫌いじゃない。
「誰も縛っとらんわ!……ていうか使い方が違うでしょそれ。まったく。ちょっと買ってくるからそこで待ってなさい」
ったく……本当に可愛げがない。しかしダルなら“だがそれがいい”なんて返すんだろうか。
高々10日程度の付き合いだというのに、ずっと前からラボに居るような気になる。
実際のところ、α世界線での付き合いも加算すれば3週間にもなるわけだし、俺の主観ではそんなものなのだろう。
ガラスの向こうの紅莉栖が俺の視線に気づいて睨んでくる。それに肩をすくめて仕方なく後ろに振り返り空を――――










空を――――仰げなかった。










視線は高く上がろうとして、途中で強制的に釘付けにされた。
「――――――」
声すら出ない。理解が出来ない。目を擦ろうとしたはずなのに腕が動かない。二度見すらさせてくれない。
息が詰まる。体が震える。動悸が早まっていく。
え?どうして?なんで?疑問が浮上してくるまでどれくらいの時間を要したのかさえわからない。
「お待たせっ、と」
折れる。
折れる。
折れる。
その感覚を必死に否定する。まだ駄目だ。混乱するな。落ち着け。俺は、俺は何のためにここまで――――頭を振る。
違う、冷静になれ。焦るな。考えろ。とにかく考えるんだ。こういう時はまずどうする? 息が苦しい。酸素が足りない。なら深呼吸だ。
「あああれ。消えたのもう10日以上前よね。結局どこの人工衛星だったのかしら」
ゆっくりと吸って。ゆっくりと吐く。繰り返せ。心臓がうるさい。ダメだ、心が浮き足立っている。落ち着かない、嫌な汗が止まらない。
何故戻った?何故変わった?いったいいつだ?何が原因だ?疑問ばかりでは前に進めない。足元が覚束ない。
土台がないなら作り直すしかない。状況を確認しなければならない。まずはどこから?ラボか?ラジ館は?見た通りだ。
大学は?家は?まゆりは?他のラボメン達はどうしている? そんな事よりもっと“確実な情報”が欲しい。
「岡部?」
「そうだ……」
あそこへ行けば――――
「あ、ちょっとどこへ行くのよっ」
走り出す。天王寺だ、ミスターブラウンの家に行けばなにかあるはずだ。なければないで構わない、1時間もあれば折り返して戻ってこれる。
「岡部!」
電車に乗っている間にメールもチェックすればいい、構内の待ち時間には電話だ、片っ端からかけてやる。
声だけ確認できればひとまずよしとしよう。発車ベルが鳴り響くホームへ駆け込み閉じるドアに無理矢理体を割り込ませる。
「はぁ……はぁ…………はぁ。くそ…………くそ……!」
息切れがして目の前が真っ暗になる、汗をだらだらと流しながら、ようやく感情の一部が口から零れ落ちた。
ぶつけようのない怒り。身を焼くような焦燥感。冷や汗と脂汗が入り混じる不快感。
ラジ館8階にかかった巨大なブルーシート、それは鈴羽のタイムマシンが“ぶつかった”痕跡に違いなかった。



そこまで確信しておいて尚、ケータイの中を確認するのを逡巡した。
それでも迷いを振り切って駅へ到着するや否や駆け出し、改札を抜けそのまま住宅街へと向かう。
勢いのままに天王寺家の玄関をノックした。
「はい……どなたですか?」
小さな足音、開錠の音もなくドアが開き自分を出迎えたのは少し甲高く幼い声。
天王寺綯の頭上越しにドアの隙間から軽く中を窺うが他に人の気配はない。こっちにとっては好都合だ。
「オ、オカリンおじ「シスターブラウン、ちょっと邪魔するぞ」
強引にドアを開き中へ押し入るようにお邪魔する。いつもミスターブラウンが履いている靴は置いてない。やはり外出中か。
靴を脱いで仕切り戸を横に開けてそのまま奥の子供部屋へ向かう。あの時天王寺はそれほど時間をかけずに戻ってきた。
ならばすぐ目立つ所にそれっぽいものが…………あった。即座に意識が、否応なく固定された。

『0.999071』

認識した刹那、眩暈がした。全身から力が抜けていくのを感じて反射的に力を込める。膝をつくな、二度もついてたまるかよ。
確認できた、ここは“β世界線じゃない”。
「ダイバージェンス……メーター……間違いない」
ここは“α世界線”だ。β世界線ならあの良く解らないデザインのデジタル時計があるはずなのだ。
ケータイのアドレス帳にバイト戦士の表示を確認しすぐさまかけてみる……圏外か。
受信フォルダにあった彼女のメールは8月9日のタイムマシンオフ会が最後だ。ラボにIBN5100はあったような気がする。
矛盾点はない。彼女はあの日1975年に跳ぶはずだった。だから俺がIBN5100を入手できるのは必然。そこに間違いはない。
β世界線でもきっちりと、完全に最初のDメールは削除したんだ。なら何が原因でまたα世界線に逆戻りした?
考えろ、何故こんな事になった? 分岐したのはいつだ? 頭痛がなくなったのは世界線が変わったからか?
世界線が変われば肉体の状態も変わった後の世界線に準じて再構成される。タイムリープマシンを作っている間はずっとあった、
「……そういうこと、なのか?」
タイムリープマシンが完成した後のあの違和感、あれはもしかして頭痛が解消された事によるものじゃなかったのか?
結線時の放電により感電したり目くらましをくらった後遺症ではなくて……もしそうだとすれば。
俺の行動が、α世界線に未来を変えたのか……?、

――――タイムリープが何なのか知らないけどさ

記憶の底からよみがえるフレーズ。ガッと頭を抱える。理解した、これ以上なく解ってしまった。
「何故あの時に気づかなかった!」
感情を抑えきれず、壁を殴りつける。紅莉栖が“ゼリーマンにはならない”と言っていたのも思い出す。
β世界線であれば知っているはずがないのに。それにさえ気付けていなかった。
「ひぃッ……」
短い悲鳴に感情に溺れそうになった自我を取り戻す。少女の反応を見て、自分がいつにも増して酷い顔をしているんだと気付かされる。
こんな子供に八つ当たりしてはいけない。心に余裕なんて欠片もない。焦ってもダメだ、このままでは本当に失敗してしまう。
積み重ねてきた全てが、彼女達に託された想いが永遠に失われてしまう。それだけは、絶対に避けなければ。
「急に押しかけて悪かったな」
一度大きく深呼吸してから声を吐き出す。もうここに用はない、一番最優先の確認は終わった。
あまりにも最悪な結果だがへこんでいる暇はない。感情の整理よりも先にすべき事がある、早く次の行動を起こさなければ。
「ぁ……」
足早に天王寺家を立ち去ろうとしてふと思い、綯の前で立ち止まった。
「シスターブラウン」
棘のある呼びかけに少女はびくっと身をすくませ、怯えた眼差しを向けてくる。
「一人しか居ない時は鍵をかけておけ。チェーンも外すな。入ってきたのが俺だから良かったものの、強盗や泥棒ならどうする?
 お前一人では太刀打ちできないだろう?」
「ご、ごめんなさぃ……」
「謝らなくていい。ただミスターブラウン、父親のことを想うならもう少し自分のことも大事にしろ」
「……うん、わかった」
余程怖かったのだろう、涙目になりながらも綯ははっきりと頷いた。
一体俺は何をやってるんだろうな……こんな事に構っている余裕なんてないのに。どうせ世界を変えてしまえば忘れてしまう。
それが解っていてなんで俺は――――考えるのはやめだ。
「俺はこれで失礼させてもらう」
ぽんぽんと彼女の軽く頭を叩いて外に出る。
ドアが閉じると、たたたたたと走る音、続けてガチャリ、ジャッと鍵とチェーンのかかる音がした。
ドアノブを回してみるとしっかりと施錠されている。
「よし。上出来だ」
一声ドア越しにかけてから天王寺家を後にする。ラボへ戻ろう。ケータイを取り出してマナーモードを解除する。
紅莉栖からの着信が3件、留守番電話の録音も2件。聞くまでもないだろう。戻ってから説明すればいい。
あとはメールが1件か。

date:2010 8/21 16:37
from:patghqwskm@ninesixpbb.com
sub :THE TIME
---------------------- 
coming soon! Please re
member this word. If y
ou can't remember,I wi

なんだこれは? 英語ばかりで全部読む気がしない。スパムか何かか? 画像が添付されているが……これは時計か?
売りつけるにしても何で壊れたものをわざわざ……いやいやこんなものに構っている場合ではなかったな。ケータイをしまう。
これこそ余計だ。帰路を急ごう。



ブラウン管工房に店長はまだ戻ってきていなかった。店内の一番奥に鎮座する42型テレビも消えている。またとない好機、逃す手はない。
この世界線でブラウン管工房の天井に“穴”を開けていない可能性も考え、少し寄り道してリモコンも買って来ている。
後は開いていなければ開ければいいだけの事。階段を駆け上がりラボの鍵を……鍵を…………くそ、隠し場所が違うぞ。
「……よし開いた」
一通り探そうとしたもののすぐに時間が惜しくなり、財布からスペアキーを取り出して開けた。
「あ、岡部」
部屋に入るなり紅莉栖がソファから立ち上がり俺に詰め寄ってきた。相当怒っているのは見れば解る。
だが俺にはその相手をする時間が惜しい。彼女を一瞥するに留めて部屋の中を観察する。ダルは談話室のPC前に座っている。
「もうどこに行ってたのよ、あのあと一人で持って帰るの大変だったんだから」
ご機嫌斜めとアピールする紅莉栖を引き連れるような形でカーテンで仕切られたその向こうへと入る。
しゃがんでレンジの設置場所を確認する。クッションをめくればかすかに光りが入ってきた。
穴は開いているな、机の上を見ればリモコンもある。
助かる。
「ちょっと岡部、聞いてるの?」
「ちょっとはな」
送るならいつだ? 作る前か? 前だとすれば何故危険なのかがわからない。
逆にDメールによってその存在を知り、タイムリープマシンの開発を前倒しさせてしまう可能性の方が恐ろしい。
だいたいこの世界線の俺がタイムリープを開発する前から知っていたのかどうかさえ確認出来ない。
ならば残された選択肢はその後のみ、開発中の俺に送る。開発中ならばその後の事についても考えるだろうし、気付ける可能性はある。
「ふざけてるんだったらぶん殴るわよ」
今日が21日、開発宣言をしたのは18日の夜ぐらいだったはず。 1日……いや2日前の方がいいだろう。
昨日ならあと少しで完成する目処が立っているし、開発直後はモチベーションが高い。狙うならその間。
「後でなら幾らでもぶん殴られてやるから少し静かにしてくれ」
「……岡部さっきから変よ? 何があったの?」
ケータイを取り出して過去へ送るメッセージを考える。シンプルなのが一番だ。

『タイムリープ』『は危険だ!即』『開発中止しろ』

もう1パターンはコピーしてすぐ貼り付けられるようにしておく。

『timeleap完成』『=dystopia完』『成!SERNの罠』

Dメールが送られてくる事の意味をこの世界線の俺も理解しているはずだ。していなければおかしい。
タイムリープマシンを48時間前にタイマーセットし、リモコンで42型ブラウン管の電源を入れる。
「え、待って何やってんのよ勝手に」
躊躇なく起動させた。
「……は? ちょ、オカリンなんでそれ使ってんの!?」
「必要になったからだ」
「意味が解らない。説明しなさいよ説明」
タイムリープマシンに近付こうとする紅莉栖を片手で制す。
「失敗したことに気付いた、あってはならなかったんだこんなものは」
「こん……もしかしてタイムリープマシきゃっ」
放電現象が始まると同時に送信ボタンを押す――――
「だめか」
本文をもう一つのパターンに変えて送信……してみたものの、リーディング・シュタイナーは発動しない。
リモコンで42型の電源を落として強制中断、送信先を紅莉栖に変更する。そしてすぐに再起動。
「あんた今自分が何やってるかわ「解ってるさ! だが説明している暇はない」
「この15秒さえ惜しいってわけ?」
「そんな短い時間では足りない」
「だからって何も言わずにこのまま続ける気!?」
「そうだ」
「――――ッ、あんたねぇ……」
「クソッ! どうして変わらないんだ!! もう一度――――
紅莉栖の喚き声にもダルの質問に耳を貸さずに強引に繰り返す事十数回、それでも、世界は変わらなかった。
リーディング・シュタイナーはピクリとも反応しないし、周囲の状況もそれが当たり前かのように存在している。
いつもそうだ、世界が変わった時には俺だけがそこにおいて異物のように扱われる。
だがそうだとしてもあんな未来にはしてはならんのだ。絶対に。こいつらをそんな目に遭わせたくなんかない。
他に見逃している事があるはずだ。
「やっと終わった? 結局何も起こらなかったみたいだけど」
何も起こらなかったという事はつまり、この世界線の俺達はタイムリープの危険性を理解しておらず、ディストピアをも知らない。
前者についてはDメールよりも融通が利くのだから一度作ってしまえば後からでも何とかなる、と思った可能性が高い。
後者については8月9日に鈴羽が跳んでいるから、その正体や目的すら知る機会がなかったのかもしれない。
@ちゃんのタイターの書き込みでその単語は知っていても、ネタとしか思わないだろう……最初のDメールは削除しているのか?
「ダル、IBN5100は?」
「まだあるお」
まだ……? 開発室を見回すと一番奥の隅に無地のダンボールがあった。この箱には見覚えがある。
中身は想像したとおりのものだった。
「でももう使わないし、重いし邪魔だし売るってのも手かも」
「どういう意味だ?」
「え? 最初のDメールもう削除したっしょ。
 “IBN5100を入手できたのは女神の導き、全てはこの為だった”ってオカリン言ってたじゃん」
この世界の俺はこいつを入手した後に真の使用方法を知ったらしい。しかもそれをきっちり実行している。
ならばディストピアについても知っていたはずだ。
「何それ、SERNに狙われてるから消す必要があったって聞いたけど」
「誰から?」
「あんたからに決まってるでしょ。目を開けたまま寝ぼけるとか厨二病の岡部らしいと言えばらしいけど」
「今また送ったから消しとかないとな」
ダルが談話室のPC前から立ち上がり、開発室のPCへ座りなおす。特にIBN5100を接続する様子はない。
俺の知るβ世界線のダルと同様にIBN5100エミュレータの開発に成功したのだろう。
「ほいほいっと。でも売る前に桐生氏に貸さないと契約不履行になるお。取りに来るの今日だったっけ?」
「そういえば夕方までには来るって言ってたけど、遅いわね」
おそらく鈴羽が旅立つ前に真実を聞いた、だから最初のDメールは削除した。それで助かったと思い込んだ。
そう考えれば俺の送ったDメールを無視した事とも辻褄が合う。単なる冗談だとしか受け取られなかったのだ。
天王寺の家にあれがあったところから、以後のダイバージェンス確認は出来ていないのだろう。
いや、ダイバージェンスメーターの存在すらを知らなかったに違いない。
「桐生氏ああ見えて激情家だから、わざと約束破って言葉責めされてみるのも……ぐへへ、いやしかしそれも……」
「このHENTAIが!」
「HENTAIじゃないお! HENTAI紳士だお!」
「このやりとりもう飽きたって言ってんのよこのドHENTAIがっ――――なっ!?」
「ふふふふ……いつもくらってばかりの僕じゃ「甘いっ「ごふぉっ!?」
その後の自分が犯した過ちにも気付いていない、故に鈴羽にはそれしか伝わらなかった。何て事だ。軽く眩暈がする。
「…………」
メールがダメなら壊すしかない。雑然と積み上げられたガラクタの中から鉄の棒を一本取り出す。
タイムリープマシンに照準を合わせ、狙いを外さないようゆっくりと振り上げ、
「ちょ、オカリン!?」「岡部何やってんのよ!!」
「止めるな! やめろ紅莉栖!」
「橋田!」
「お、おう!」
「やめろ、やめんか貴様等」
前後から二人に羽交い絞めにされた。下手に振り下ろせば二人を傷つけてしまう。それでも壊さなければならない。
ならないというのに、助けようと思っている二人が敵に回る。
「これが、こんなものがあったから……!」
またα世界線に戻ってしまった。彼女に苦しみだけを押し付けてしまった。積み上げてきた全てを台無しにしてしまった。
それでも今破壊すればまだ間に合う、急がねばならんのだ、急がねばならんというのに……! 邪魔をするな!
後で幾らでも説明してやるから、頼む!
「たっだいまー。トゥットゥルー☆ わわー、オカリンどうしたのー?」
「まゆり! いいところに、岡部を止めて」
「せっかく作ったのに壊しちゃうの?」
「作ってはいけなかったんだ、作って――――そうか! これで戻ればいい。紅莉栖、俺が開発宣言したのはいつだ?」
壊すのが邪魔されるのなら使えばいい。作る前に戻って俺があんな発想さえしなければ元に戻せるはずだ。
「え?」
「いつだと聞いている」
紅莉栖に詰め寄る。怯えた顔をしていようが関係ない、なかったことにしなければ。根本的に何の解決策も見つかっていない、それでも。
この世界線は危険すぎるのだ。
「は、8月18日の20時頃だったと思うけど」
「使うぞ」
3日前だと何時間前にセットすればいい? 簡単な計算なのに焦っている所為でままならない。くそ、1日が24時間で……
「どういうことよ、さっきからあんたおかしいわよ」
「決まっている、過去に戻ってタイムリープマシンを開発しなかったことにする」
肩に乗せられた手を振り払う。ええと今何時だ?逆算しないと――――
「意味が解らない」
「ちょ、あれだけ苦労して作ったのになかったことにするとか。そもそもオカリンが作ろうって言い出したんだろ。わけわかんね」
反感は当然だがそんなもの知った事か。面倒だ、100時間も戻れば充分だろう。
この俺の記憶さえあればあればなんとでもなるはずだ。とにかくタイムリープマシンは作らない、β世界線に戻ったら中鉢論文を消去する。
この二つの行動さえ実行できれば『シュタインズゲート』に辿り着ける。
「説明して。でないとそんなこと、認められない」
モニタの電源を落とされる。紅莉栖の抗議の眼差しは俺を刺し殺さんばかりの勢い。
しかしそれに込められているのは単なる怒りだけではない、複雑なものだ、それに気付いてしまった。
手が止まる。言うべき言葉を失ってしまう。一時的な感傷になんて浸ってはいけないのに。
気付いてしまったから、気勢を殺がれてしまった。
「けんかは良くないよー。それにね、みんなでがんばって作ったんだから、あ、まゆしぃは手伝えなかったけどね。
 もう少し考えても良いんじゃないかな? ね、オカリン?」
まゆりはこう見えて状況を良く観察している、無条件に俺の味方はしてくれない。
3対1。数の上でも分が悪い、このまま強行してもまたさっきのように止められるだけだ。強攻策は撤回するしかない。
「…………わかった。“俺”の知っていることを話そう」
開発室から離れ、ソファに深々と腰を下ろす。人を変え、場所を変えてこれで何度目だろうか。愚かしい自分の過ちを告白する。
託された願いを言葉にする。β世界線でない以上、そこで有効だった因果は全て意味を成さない。
話したところで世界が変わったりしない。その事実が余計に俺を憂鬱にさせた。




「……ふぅん、なるほどね、仮に岡部が言ったことが全て正しいのなら、それしか方法はなさそうね」
「わかってくれるか」
三人も居れば全員が素直に俺の話に耳を傾ける訳もなく、質問を間に挟みながらの説明となってしまい、思っていたより時間を要した。
特に紅莉栖は小難しい話に好奇心をくすぐられるタイプ故に質問の浴びせ方も容赦なかった。
一通り話し終えてやっと喉を潤す。冷えたドクペの刺激が渇いた喉に少し痛い。
「仮に、って話よ、岡部以外の誰にもそれが真実だとはわからない」
「いつもの厨二病設定乙と言えばそこまでだお。僕的にはオカリンは将来ラノベ作家がオヌヌメ」
「そういうこと」
「まゆしぃには難しすぎてよくわからないのです」
「くそ、どうして解ってくれないんだ!? このままだと……」
あれほどきちんと説明したのに、散々な回答に思わず声を荒げてしまう。
「あのね岡部。あんたが必死なのは見れば解る。でも客観的に確認できる何かがないと私達には解らない」
リーディング・シュタイナーがあってこそここまで積み重ねられたのだ。それをない人間に判らせようなんて無理がある。
証明なんて最初から出来るわけがない。そんな当たり前の事を突きつけられて、それでも諦める訳にはいかず、何か手はないかと考える。
「……そうだ。まゆり、フェイリスだ! あいつは嘘を見破れる力を持っているのだ、それで確認すれば……」
あいつなら俺が嘘を言っているかどうか見極める事が出来る。しかも彼女の能力なら誰でも簡単に本物だと見分けがつく。
これなら説得は可能だ。
「ええー!? フェリスちゃんそんなことできるのー? まゆしぃ全然知らなかったよー」
「フェイリスは今どこにいる?」
改めて問い直すとまゆりの顔色が曇り、申し訳なさそうに目を逸らされた。
「フェリスちゃんは秘密の修行があるとか何とかでね、来週の終わりまでどこかの南の国に行ってるって」
「そんな……」
なんという間の悪さだ。失望感が全身を覆う。タイムリープマシンが完成するまではあんなに順調だったのに。
ここに来て流れが180度反転している。何かをしようとするそばから躓く。ふと浮かびそうになったビジョンを瞼を閉じて掻き消す。
諦めてなるものか。
「嘘が見破れたとしても、本人がそれを本当だと信じ込んでいたらわかるのかしら」
「紅莉栖、お前まだそんなこと」
「それにどんなメリットがあるのかわらないけどフェイリスさんがウソをつく可能性もある」
「これほど俺が必死になっているのにどうしてわかってくれないんだ!?」
「ごめん、私こういう性格だから」
悪気があるわけじゃない、そんなこと知ってるさ、だからってもう少し言葉を、いや、選んだ所で紅莉栖の考えは変わらない。
本質が変わらないのに見方を弄繰り回しても無意味ではないか。
「あ、そろそろ雷ネットの時間だー、みんなも一緒に見れば楽しくなって仲直りできるよ、ね?」
まゆりがテレビの電源を入れる。視界に飛び込んできたのは“緊急報道”の文字。ん? ロシアン航空機墜落事故だと?
……珍しい。一昔前ならまだしも2000年代に入ってからもしかすると初めてではないだろうか。
「えっとチャンネルはー」

> 成田発モスクワ行きロシアン航空799便は、日本時間6時5分に成田空港を
> 出発しましたが、モスクワへの到着直前になって貨物室から火災が発生、
> その後爆発を起こし炎上しながら市街の山中へ墜落しました。乗客の中に
> はドクター中鉢こと牧瀬章一氏が――――

「かえないで」
「ほえ?」
「そのままにして」
俺が言うよりも早く紅莉栖がまゆりに待ったをかけた。牧瀬章一――――β世界線で彼女を殺そうとした実の父親。
にもかかわらず、というと語弊があるか。この世界線であいつは彼女を殺そうとはしていない。
紅莉栖は食い入るように画面を見ている。

> 乗客216名の内、184名までの死亡が確認されており、残った32名の捜索が
> 懸命に続けられています。

画面にでかでかとドクター中鉢の画像が映る。

> 死亡が確認された日本人の中にはドクター中鉢として有名な牧瀬章一氏も
> 含まれており、情報筋によりますとロシアへの亡命する為にこの便に乗っ
> ていた模様です。

「亡命……? 何の為に?」
耳慣れない言葉につい疑問が口をついて出てしまう。意味が解らない。わざわざそんな事をする必要性が思いつかない。
……待て、何か忘れているような。何かが頭の奥で引っかかる。

> 回収された遺品の中には子供達の間で大人気のキャラクタートイも含まれ
> ており――――

「あー! あれ、『メタルうーぱ』だよ」
「なに!?」
回収された遺品が並ぶ会場内が映し出される。その中でほんの少しすすに汚れた『メタルうーぱ』が異彩を放っていた。
何故そんなものがあんな場所にある? 偶然とは思えない。

> ――――7月28日に起きた人工衛星墜落事故の際に購入されたもので、
> “もしこれを購入せずにそのまま会場へ行けば死んでいた”という牧瀬章
> 一氏の当時の発言から、今回の亡命に際してもお守り代わりに携行したも
> のと思われますが、悲しいことに二度目の奇跡は起こらなかったようです。

「…………うそ」
「クリスちゃん!?」
がくりと、クリスが膝を着く。隣にいたまゆりがしゃがみこみ紅莉栖の顔色を窺う。
俺の位置からでは紅莉栖がどんな顔をしているのかは見えない。それでもまゆりの横顔からある程度察する事はできた。

> 次の……え?、はい。今最新の情報が入りました。今回の墜落事故に関し
> てロシア政府から爆破テロの可能性があるとの発表がありました。今回の
> 墜落事故に関しロシア政府から爆破テロの可能性があるとの発表がありま
> した。ロシア政府は先にお伝えした牧瀬章一氏を含む複数の乗客の遺体か
> ら銃痕が確認された事を発表――――

「ちょ、テロとか。マジで? 持ち込み規制や身体チェックも同時多発テロ以降厳重になってんのにまだすり抜けるとか」
「………………」
言葉を失う。2001年のあの事件以降世界規模で入出国の規制は厳しくなった。なにもそれは飛行機に限ったものではない。
船舶は勿論、自動車での越境に関してもほぼ同様のチェックが入るのだ。
犯人にはその厳しい監視の目を掻い潜り、墜落させて自らの危険を冒してまでも完遂すべき“何か”があった。
そう考えるのが正しい。そして俺はその“何か”をほぼ理解しようとしている。報道はまだ慌しく続いている。

> ――――また新たな情報です。牧瀬章一氏は出国時のセキュリティチェッ
> クで先ほどお伝えしたキャラクタトイが金属探知機に引っかかった事で係
> 員と口論しており、やむなく機内にそれを入れた封筒を持ち込んだようで
> す。封筒の中にはキャラクタートイ以外に数十枚に及ぶ書類が入っていた
> のを複数の係員が確認していますが、ロシア当局の発表では封筒の中には
> キャラクタートイだけがあったとされています。牧瀬章一氏の亡命はタイ
> ムトラベル研究を続ける為だという話が関係者の間では当たり前となって
> おり、なくなった書類とこの件の関連性について問い合わせた所、ロシア
> 当局は現時点での正式なコメントを避け――――

これか……! これなら繋がる、全てが、世界を変えられる方法が! 飛行機を墜落させたのはSERNで間違いない。
論文が一部でもロシアへ渡らないよう完全に処分した上で、証拠隠滅を図る為に墜落までさせたのだ。
銃器を使ったのは抵抗されたからだろうが、おそらく犯人は捕まらない。
限りなく1%に近いこの世界線での出来事であれば、β世界線でも同様の事例があってもおかしくない。
それこそ紅莉栖がラボへ来た時のように数日程度の誤差ぐらいで収まるはず。
やっと思い出したが鈴羽の言葉通りなら、『中鉢論文』は一番最初にロシアで発表される。
α世界線とβ世界線の『中鉢論文』における収束の違いは“中鉢が論文をロシアへ持ち込めるか否か”だろう。
前者ではSERNの妨害にあって失敗する、後者ではSERNの妨害そのものが失敗するのだろう。
後に勃発する第三次世界大戦はSERNの研究にも膨大な悪影響を与えたはず、故にタイムマシン研究は頓挫させられる。
更にそのSERNが失敗するβ世界線において、第三次世界大戦が起こるか否かの分岐点で俺が唯一干渉出来るのは『メタルうーぱ』の一点のみ。
あの7月28日、おそらくまゆりが失くした『メタルうーぱ』は紅莉栖が拾いあの封筒の中に入れた。
単なる紙切れに過ぎない封筒が鈴羽の銃弾を弾けたのは、それに当たったからだ。
ドクター中鉢は“『メタルうーぱ』と論文をセットで所持した状態でロシアへ亡命する”、これが共通項となる。
故に“あの日の俺”が入手する前にこの俺が奪ってしまえばいい、そうすれば次に出てくるのはプラスチック製の『うーぱ』だ。
俺が干渉する事で未来は影響を受けて当初の予定より少しだけ“ずれる”、導かれる結果など想像するまでもない。
…………嗚呼、やっとだ。やっと全てが繋がった。思いもよらない形ではあったが、必要な情報は入手できた。
これで『シュタインズゲート』へ届く。どのタイミングで何をすべきか、全ての道筋が俺には見えている。可能だ。やれる。
今にも腹の底から歓喜の声を上げて叫び出してしまいそうなほどだ。まさに感無量。言葉も出ない。
怪我の功名、禍転じて福と為すと言ったところだろう、後は目の前の問題さえ解決できれば全ては丸く収――――?
ぐいっ、と腕を引っ張られそのままテレビから遠く引き離される。目の前に居るのが紅莉栖とまゆりなら消去法でダルしか残らない。
「なんだダル、俺は今「なんつー顔してんだよ」
興奮冷めやらぬ俺にそれ以上喋らせたくないとでも言わんばかりにダルは低く抑えた声で言葉を遮る。
空気を読まずにまた水を差してくる男につっかかろうとして――――その視線に黙らされた。
「牧瀬氏やまゆ氏が気付く前だからまだ良かったけど、正直怒りが湧いてきたお。誰が見てもこの状況なら牧瀬氏の親父さんが死んだって解るだろ。
 どうやったらあんな笑顔浮かべられるんだよ」
返せる言葉がない。空気が読めていなかったのは俺だったらしい。気がつくと紅莉栖は泣き崩れていて、まゆりが抱きしめて慰めている。
今の俺には紅莉栖を支えてやる事が出来ない、その資格すらもない。かけるべき言葉も思いつかない体たらく。
なし崩し的に、当初予定していた宴会どころではなくなった。



室内に纏わりつく空気が重い。日はすっかり落ちたと言うのに日本特有の湿度の高さが昼の名残を今も尚牽引する。
宴会なんてもうしないと判っているのに誰も帰ろうとしない。
まゆりはソファに座って俯いているだけ、紅莉栖は開発室から動こうとしない。
ダルは談話室のPCに向かい合っているものの、いつものような軽快なマウス捌きは欠片も見せない。
画面に映っている映像も、実際目に入ってても見てはいないのだろう。
「帰らないのかクリスティーナ。色々と準備があるだろう、母親へは連絡したのか?」
「帰らない。見張ってないとあんたが壊すかもしれない」
底冷えするような声だった。うつろな瞳の奥には俺に対するほの暗い殺意の炎が揺らめいている。
数時間前とはまるで別人のように紅莉栖は印象を変えていた。
「紅莉栖」
「私のパパはずっとタイムトラベルの研究をしてた、でもその所為で学会で異端視されて結果的に追放された。
 そしてその汚名を晴らせないまま死んだ、なら、私が後を継いでこれを世界に認めさせるしかないじゃない」
「え、公開しないって話じゃなかった?」
「そんなのお断りよっ! 誰にも邪魔なんてさせない!!」
ダルののん気な口調に紅莉栖が感情の昂りを抑え切れずヒステリックに叫んだ。
「紅莉――――
落ち着けと、声をかけようとしたところで、完全に外野と化していたテレビから緊急速報の音が流れてきた。

> 爆破テロ予告で山手線、総武線、京浜東北線の全線が運転見合わせ

「爆破テロ予告? つーか全部、秋葉原駅通ってるじゃん」
ダルの発言に不安めいたものを感じた。まるで狙ったかのように、秋葉原駅を通る線だけが運転見合わせをした事実。
ひっくり返せば、秋葉原駅で爆破テロ予告があったからそれら全てが運転を見合わせたんじゃないかって話になる。
「ほら丁度良く帰れなくなった、世界が私に帰るなって言ってるのよ」
自暴自棄に近い哀しい笑顔をして紅莉栖が哂う。
「クリスちゃん……」
「冷静じゃないぞクリスティーナ、いつものお前らしくもない」
イヤな予感がする。確信めいた感覚を振り払うかのように紅莉栖に自制を促す。
「冷静でなんていられるわけがないでしょ! ふざけないで! パパが死んだのよ!? パパが……パパ…………」
がしゃんと椅子に座り込み、紅莉栖はまた深く項垂れ、すすり泣き始めた。
「オカリンひどすぎるよー」
ああそうだ、俺は酷い男だよまゆり。俺がタイムリープマシンなんて作ろうと言い出さなければ紅莉栖がこんなに苦しむ必要もなかった。
鈴羽が消える事も死ぬ事もなかったしお前にそんな顔をさせる事もなかった。フェイリスやルカ子にだって迷惑をかけている。
俺がひらめかなければダルも電話レンジなんて作らなかったんだ。だが幾ら並べ立てても一度起こった事実は取り消せない。
例え世界線が変わり俺以外の誰にも認識できなくなったとしても、それがなかったことには決してならないのだ。
「ならばお前が使うか、使えば事故が起こる前にそうなると伝えることも出来るのではないか」
「…………!」
「以前お前はDメールを送らないと言ったな、自分の過去を否定したくないと。
 だがタイムリープマシンを使えば否定することなく記憶は継続される、今のこのお前の主観がどうなるかは解らないが」
やってみる価値はあると彼女に選択を求める。
「ダメよ」
「ポリシーに反するからか」
問いかけに対し、紅莉栖は顔を上げずに力なく首を横に振った。
「……私じゃ、絶対説得できない」
そう思うのも無理はないのかもしれない。俺は一度、紅莉栖と中鉢の親子とはとても思えないような殺伐としたやり取りを見ている。
「やるまえからあきらめるのか? チャンスはそこに転がっているのに手を伸ばさないのか? 公表すればもう私的利用は不可能だぞ。
 Dメールだってある」
それでも、そんなありきたりな答えなんか聞きたくはなくて、強く反論していた。
「岡部、言ってることが支離滅裂よ」
「そうだな。だがそんなことはお前にとってどうでもいいことだろう。変える気があるなら行動に移せといっている。
 別に失敗が怖いわけではあるまい。もしそうなら紅莉栖、お前の父親への思いはその程度ということだ」
「ッ~~~~~」
紅莉栖の顔が跳ね上がり、涙を浮かべた瞳で俺を睨みつける。俺は真っ向からそれを受け止めた。
「オカリン言い過ぎ」
「…………知ってるくせに」
何を、と問う前に彼女が叫んだ。
「どうしてそんな酷いこというのよ!!」
走ってこの場から逃げ出そうとする彼女を慌てて捕まえる。
「おい」
玄関前でもたつく紅莉栖の肩を掴む。靴に履き替えなければ外には出られないし鍵だってかかっているのだからそうなってしまう。
「紅莉栖、待て」
「離してよっ」
思わぬところで勢いを殺がれた腹いせか力任せに俺の手を振り払う。振り向きざまに振るわれた彼女の手が、俺の頬を強く叩いた。
「ぁ……」
俺を睨みつける眼光が、一瞬だけ弱まり、また強さを取り戻す。これは効いた。じんじんとすぐに叩かれた所が熱くなってきた。
指の形までくっきりと赤く腫れ上がるまで時間はかからないだろう。
紅莉栖が俺に背を向けてもう一度逃げようとする、それを無理矢理振り向かせて止める。
「紅莉栖」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい! どうしてあんたは……なんで…………ッ」
声に出来ない思い、言葉にならない声。表現できるものでもないし表現しようとしても足りないのだろう。
全部は伝わらないし理解できる訳でもない。それでも優しく肩を叩いてやることぐらいは俺にも出来た。
問題はうまく笑えていたか、なのだが――――耳が妙な音を聞いて思考が中断された。
カリカリと。天井裏で野鼠が柱をかじる様な、違う。何だこの金属めいた音は。
「岡部……?」
紅莉栖の背中の向こう。ドアノブが音もなく回っている。何かを確かめるかのように。
そのまま見詰めていると施錠されて横一文字になっていたそれが、俺の目の前で、カチンと。縦一文字に変わった。
「来いッ!!」
「え?――――
突如湧き上がった恐怖をねじ伏せて咄嗟に紅莉栖を力任せに引っ張りドアから距離を離す。
その直後、ドアが勢い良く開かれ、4人の男が雪崩れ込んできた。
あまりにも素早い動き。あまりにも訓練された鋭さ。入り口で男達は横並びに展開し俺達へ銃口を向ける。
声を出す暇もなく、何かが出来るような隙なんて見つけられる訳もなく。
それ以前に俺は紅莉栖を玄関から引き離すのが精一杯で、それ以上動けなかった。
あの自動小銃はAK-47か? 見覚えがあったのはそれくらい。状況を理解するには至っていない。

「動くな。全員両手を上げろ」

それでも金髪のメガネ男の流暢な日本語で否応なく現実を認識させられる。酷く軽い声がその場にあまりにも不釣合い。
それを言うなら奴等の服装も柄シャツに短パン、ジーンズにポロシャツと観光客と言わんばかりのカジュアルさだ。
だがこれはドッキリでも白昼夢でも妄想でもない。俺がこの世界線で最も恐れていた、最悪の事態になってしまった。
横目で見るとダルとまゆりは既に両手を挙げていた。そして俺も紅莉栖と視線を交わして、二人一緒に挙げる。
闖入者4人それぞれの銃口の向きが俺達4人に綺麗に割り当てられている。
下手な動きを見せれば即、引き金にかけられた指が動くのだろう。
「――――」
流れる空白。男達はそれ以上動かない。話もしない。ただ、テレビから空気の読めない笑い声が心底おかしそうに垂れ流されている。
その音に、別の音が混ざってきた事に気づく。カツカツカツと。
響いてくるヒールの音。理由なんか考えたくない程に、今にも増してイヤな予感がした。
いや、予感と言うのはそうだったらいいなという現実逃避に過ぎなくて、俺にはもう誰がくるのか判っていた。
「こんばんわ」
酷く場にそぐわない小さな声でヒールの主は俺達に挨拶をした。
「約束通り、IBN5100を回収しに来た」
銃を構えた男達よりも一歩踏み出した位置で立ち止まり、やはり俺達の方を向かずに床を見詰めている。
「萌郁さん?」
「き、きき桐生氏にドッキリ仕掛けられるなんて、斜め上過ぎるお」
「岡部倫太郎、橋田至、牧瀬紅莉栖3名の身柄、それとタイムリープマシンも確保させてもらう」
ダルの引きつった声もまゆりの呼びかけも無視して女が言葉を続けた。
「あなた達に拒否権はない。逃げ場もない。私達の仲間は、すでに秋葉原中に散らばっている」
ライダースーツに身を包んだ桐生萌郁。彼女の声だけが淡々と、静かに響く。
爆破テロ予告をしたのはこの為なのか? この為だけにそんな事を仕組んだのなら容易に想像が出来る。
――――SERN(ヤツら)は本気なのだと。
「指あ……桐生萌郁よ、そ、それがお前の選択なのか……?」
あまりにも場違いな問いかけ。しかし俺は知っているが故に聞かなければならなかった。もし。万が一。億が一でも。
その可能性があるのなら聞かなければならなかった。今この機会を逃せば次はない。分は悪すぎる、それでも。俺は――――
彼女の視線がゆっくりと床から上がる。
「そうよ」
そして、俺を真っ直ぐに射抜く。
「…………」
決定的。一塵の迷いのない紅い瞳に、俺は完全に言葉を失った。絶句。ぐうの音も出せない。
「FBは……SERNは「M4、口を慎め」
浅黒い肌の男から注意され、萌郁は言葉を飲み込み口を噤む。状況はこれ以上ないほどに最悪。

――――君はSERNに捕らえられる。

空っぽになった心の空隙に昔、鈴羽に聞いた声が木霊する。あ、あぁ……あ……声が出ない。喉がカラカラに干からびる。
この場から全力で、死に物狂いで逃げ出したくなるような衝動に思考が埋め尽くされる。
だが意に反して体が動こうともしないし、容易く隙が見出せる状況でもなかった。俺はきっとこの後に待つ展開を“知っている”。
俺達が捕まるよりも先に起こる、目を背けたくなる事態を“知っている”。
いきなり奇声を上げて発狂してしまいそうなほどに、俺は恐怖?嫌悪?拒絶?いやもうわけのワカラナイ負の感情に心が押しつぶされていく。
クルーカットのこの男、どこかで見たような気がするがそれどころじゃなくて思い出せない。
「なんで……3人なの?」
それまで黙っていた紅莉栖が、ようやく口を開いた。やめろ。
「なんでまゆ氏、入ってないの……?」
ダル、それ以上聞くんじゃない。
「答えるつもりはない」
冴えた声が返される。昼間の残暑も引かぬ室内で背筋を伝うのは冷や汗。
奥歯がガチガチと震えて、歯を食いしばって止めようとしているのに噛み合わない。
「ね、ねえ、萌郁、さんはラボメン……仲間……だよね?」
「………………」
萌郁はまゆりに応えない。何も映さないようなガラス玉のような眼でどこに焦点を合わせているのかも解らない。
彼女の後方で銃口を俺達に向けたまま、男達(ラウンダー)も動かない。
「もう一度だけ言う。3人は一緒に来て」
「ねえ、ウソって言ってよ」
まゆりが一歩、前に歩み出る。
「おい動くな」
男の制止も聞かずに、また一歩踏み出そうとしている。
「やめろまゆ――――り……」
裏返った声で慌てて手を伸ばす。だがその距離はあまりにも離れていて、服の裾さえも掴めない。
やめろ、やめるんだまゆりやめてくれ近付くな萌郁頼む頼むからそれだけは頼むからまゆりをまゆりダメだダメなんだやめてくれやめろやめろやめろやめろやめ――――
「萌郁さんのばか! どうして、どうしてこ――――
抗い難い衝動に堪えられず体が飛び出す。
「動くな!」
「がっ――――」
まゆりに掴みかかり入れ替わろうとした俺の横っ面に強い衝撃が走った。ぐるんと視界が回る。
視界の端に一瞬何かが見えた、が、それは俺が認識する前に力任せに過ぎ去った。銃把? 紅莉栖の平手の比ではない。
三半規管が狂わされる、視界に星が瞬いたと感じる間もなく真っ暗になって何も見えなくなる。全身から、力が抜けていく。
それでも倒れるのだけは何とか耐え切った。ぬるりと生温い血の感触が頭を押さえた右手に纏わり付く。
「萌郁さん! オカリン!?」
振り返るまゆり。その横でシャツから銃を抜き出す萌郁。
焦点の定まらない砂嵐のような視野、その中で銃口がまゆりへ向けられているのに気付いて、全身から血の気が引いた。
よせ――――そう叫びたいのに声すらも満足に出せなくて。
目の前で起こる事があまりにもゆっくりと、はっきり見えているのに、体が思うように動かない。
「まゆり! ダメェ!!」
焦りや恐怖すら感覚としてまとまらず、朦朧とした意識の中、紅莉栖が痛切に叫んで。
「交渉の余地はない」
やめろ。
「言ってわからないなら――――」
やめるんだ萌郁。
だれでもいいから止めてくれ。
だめだそんな事。
やめろ、やめてくれ。
「――――イヤでもわかるようにしてあげる」
やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!


――――まゆしぃがね、ピストルでバーンって撃たれるの





安っぽいクラッカーが弾けるような軽い音がして、

――――椎名まゆりの没年は2010年8月

ふわふわの羽布団にでも倒れ込むかのようにゆっくりと。まゆりは糸が切れた操り人形のように固い床へ横に倒れた。
「う、「わああああぁぁぁぁぁっ!」
ダルが頭を抱え込んでその場にうずくまる。紅莉栖は悲鳴を上げる間もなく言葉を失う。
俺はただ、まだ目の前で起きた事を理解できていなくて、目を背けたい気持ちで一杯でどうしようもなくなっていた。
ぁ……
まゆり。
まゆり?
動かない。
ピクリとも。
まゆりは動かない。
この位置からでは顔も見えない。
水色のワンピースが徐々に赤く染まっていく。
何だこれ?何なんだよこれは。なあ、何でこんな事になった?
鮮烈な赤色に思い出したくもなかった鈴羽の最後の姿がフラッシュバックする。
俺はこれっぽっちも、チリ一粒ほども望んだ覚えはない。神にさえ祈りも願いもしていない。
「私達にとって椎名まゆりは必要ない。死んでも死んでいなくてもどっちでもいい。
 多分まだ死んでない。素直に投降してくれるなら、救急車はその後で呼んであげてもいい」
呼んであげる……だと……?
「おまえなああああああああああああ「やめて岡部! あんたまで撃たれたら私はっ!!」
立ち上がりながら萌郁に詰め寄ろうとして、腕を掴まれた。
「離せっ、こいつは、この女はまゆりを!」
俺の大切な仲間を!幼馴染を!裏切って!何の躊躇いもなく撃ちやがった!!
許せない、許せるわけがない。そんな道理などまかり通るものか!!
憎悪と怒りと憎しみと悲しみとまぜこぜになって理性なんて保てる訳がなかった。
「ダメ、ダメだってば…………お願いだから……っ」
萌郁の銃が今度は俺の眉間に照準を合わせる。
「あなた達を連れて行くのは口封じのため。連れて行けないなら「ここで殺すのかよ!」
「抵抗するなら」
紅莉栖の手を振り払い、萌郁、否、M4を殺さんばかりに睨みつける。
この女を許してはいけない。俺が知る彼女とは違うこの女を、絶対に許してはいけ――――

「………………はぁ…………ぅ…………」

聞こえたのは蚊が鳴くよりもかすかな呻き。でも俺が聞き漏らすはずがなかった。
「まゆり!?」「良かった……」
まゆりが横向きから仰向けに体を倒す。浅く速い呼吸をしている顔が見えた。
額にはすごい量の汗、傷口を押さえた左手は彼女自身の血に塗れて真っ赤に染まっている。血が止まっているようには見えない。
「ほら、生きてた」
まゆりの生存に安堵し喜びを見せた俺達の心を逆撫でするかのように女が、人の感情を欠片も乗せない声で冷たく呟く。
「どうするの? 今ならまだ間に合う」
睨みつける俺の視線を真っ向から受け止めて女が選択を迫る。視線を横にずらせば重傷のまゆり。
背後には心配そうに俺を見詰める紅莉栖と、まだ頭を抱えたまま震えているダル。
時間はあまりにも無い。選べる選択肢なんか――――あるわけがない。
心の中がぐちゃぐちゃで、土壇場で、決して、絶対に間違えてはならない時なのに! 何も……何も、思い浮かばない……ッッ!
「く、ぅ……おおおぉぉぉぉぉぉ…………」
悔しさと苦しみ、痛みと共に声にならない声が口から溢れ出す。代えられない。
まゆりの命には代えられないのだ。必死に、何度、幾ら考えてもその選択以外が思い浮かばなかった。出来なかった。
自分の目の前で大切な人が死んでいくのなんてもう見たくない。俺自身が耐えられない。
見殺しにしてギリギリまで足掻くのが最善だとしても。そんな選択、俺にはもう、選べないんだよ…………
「…………わかった。投降するから、まゆりは、まゆりだけは…………死なせないでくれ……っ!」
やり直せるとかやり直せば良いとかそういう問題じゃない、俺個人の問題だった。
死に掛けたまゆりを見て非情に徹するなんて、最初から無理な話だったんだ。
この後鈴羽の言ったように本当に死んでしまうとしても、今は生きている。生きているんだ。
生きているのに、どうしてそんな選択が出来るっていうんだ……っ。
「岡部……」
「オ、オカリン…………」
想いを口にしたらふっと体の力が抜けて、膝をついた。
折れた。
折れた。
折れた。
折れてはいけない心が折れた。はっきりとそれを自覚した。もう駄目だ。この場での抵抗は無意味に終わる。
俺の所為だ、俺の所為だ、俺の所為だ。紅莉栖やダルが無茶出来るはずもない。
ただの学生に研究者、そんな非戦闘員に何が出来ると言うんだ。
「拘束して」
後悔なんて何段積み重ねてもしても切りがない。許されないのは俺の方だ。萌郁じゃない。俺だ。こんな世界にした俺が全部悪い。
「おい立て。いくぞ」
腕を引き上げられて、ようやくなんとか、立ったような状態になる。なっただけで体に力が全く入らなかった。
胡乱な視界の端に俯く紅莉栖とダルの姿が見える。紅莉栖の顔にかかった髪の隙間から、何かが煌いて床へ落ちていった。
胸が痛い。痛いはずなのにその欠片も感じられないほどに、精も根も尽きて、抜け落ちている。
自分のあまりの脆さを高笑いする鳳凰院凶真(もう一人の自分)を幻視した。
「すまない…………すまない……」
誰に言うでもなく。口から謝罪の言葉がぽろぽろと零れ落ちる、でも涙は零れ落ちてくれない。
終わった。絶望の深淵、奈落の底へと落ちていく中で瞼を閉じて――――










パン

顔に、何かが飛び散った。

「な!?」

誰かが倒れる。

パン

「M4貴――――

パン パンパン

数秒してそれが銃声だったのだと、理解に至った。
「ヒィッ!?」
紅莉栖が短く悲鳴を上げ、
「う、うぁあああああああああ!」
ダルが再び唸り声を響かせる。頬を撫でると、自分のものとは異なる血がへばりついていた。
「ぐ……っ、ぉ、お前俺、た「うるさい」
更に何発も立て続けに銃声が響き、男の声も命も掻き消された。
再び訪れる静寂。俺達を拘束しようとしていたラウンダーを撃ったのは――――その指示を出した萌郁本人だった。
「…………」
彼女は視線を一巡りさせるとおもむろにケータイを取り出す。
「こちらM4、状況完了。ターゲットABCは確保。各班事後処理をして撤収。
 予定通りフタマルフタマル到着予定で合流地点へ向かう。オーバー」
ケータイを切り、瞼を閉じて長いため息を吐く。
そして次に目を開けた途端、彼女は顔をくしゃくしゃにしてまゆりの元へ滑り込み、傷に障らないようゆっくりと彼女を抱き上げた。
そのまま包帯を取り出して応急処置を始める。まだ、俺の思考が現実に追いつかない。
「ごめん……ごめんなさい…………痛いよね? 痛くないわけないよね……」
悲哀に満ちた顔で謝罪する萌郁に、先ほどまでの人形染みた冷たさはどこにも感じられない。
表情はやっぱり少し乏しくて、それでも俺がよく知っている桐生萌郁がそこに居た。
まだ、現実を理解が出来ていない。
「きつく縛るから、もう少しだけ我慢、して」
「ひぅ!………ぁ……………ふぅ…………ありがとう、萌郁さん」
短い悲鳴を上げたあと、まゆりの表情がかすかにやわらいだ。多少は楽になったのだろう。
まゆりの感謝に対し萌郁は静かにかぶりを振った。
「……しばらくはだいじょうぶ…………だから」
まゆりが、俺の顔を見る。その視線ではっと我に返らされた。
脂汗を浮かべた、今にも消えてしまいそうな光を宿した眼で彼女は、必死に焦点を俺に合わせる。
「うん……解ってる。岡……“倫くん”」
萌郁が抱き上げた時と同じように優しくまゆりを床に寝かせる。そして涙を拭うとまゆりと同じように俺を見詰めた。

「“タイムリープ”を。偽装はすぐにばれる、もって5分」

つい先程目の当たりにしたばかりの強い意志を秘めた眼差しをぶつけられ、我に返ると同時に理解させられた。
彼女が為した選択はこれだったのだ。
「お前、まさか……まゆりも、なのか?」
俺の問いかけにまゆりは何も言わず、今出来るであろう精一杯の微笑みを見せた。何も知らなかった。
解るはずもなかったでも、お前達がこんな辛い目に遭う必要なんてなかっただろう?
「話してる時間はない。急いで」
萌郁が玄関へと走りドアを再び施錠する。続けて窓を閉じてカーテンを引く。
「いや、しかし……」
何故か迷った、今更、自分の命が惜しくなった訳でもない、元々使う予定だった。
このまま行っていいはずなのに、もうこれしか方法はないのに、一度折れてしまった心が俺を迷わせる。
もし次もまた失敗したら……また彼女達を苦しめる目になったら…………俺は、俺はっ。
今度こそ取り返しのつかない失敗するんじゃないかと言う不安が、恐怖が、瞼の裏にこびり付いて離れない。
鈴羽を殺して、見殺しにして、紅莉栖を消して殺させて、まゆりにまでこんな目に逢わせて、萌郁にまで辛い思いをさせて、
また次の世界へ行ったら行ったで同じ事を繰り返してしまったら。考え出すと止まらなくなってしまう。
奥歯がまた震えだしそうになって、強く噛み締める。今目の前にある現実から全力で逃げ出したくなっている。
「“私”は……“私”は! こんなことしたくなかったッッ!!」
完全に自信を失っていた俺に、萌郁の激情が浴びせられた。
「萌――――
「したくないのに!するしか方法が無くて!これでダメならあと何回殺せばいいの!?そんなにまゆりちゃんを殺させたいの!?
 “私”は知りもしないのに、この手にはあの感触が残ってるの、この目は何度もそれを見てるのよっ!
 銃で撃って、車で轢いて、見せしめにあんな、あんなことにまで手を貸して…………これ以上は耐えられないのよっ!!
 友達なのに、優しくしてくれたのにっ、皆を裏切りたくなんか無かったのに! その想いすらも自分のモノかわからない!!
 人を撃ったのだって初めてなのよ? でもこんなに撃ち慣れてる、手も震えなかった! 躊躇いさえ感じなかった!!
 それを誇らしく思っている自分と嫌悪する自分とが入り混じって頭も心もグチャグチャなのッッ!!
 でも、それでも…………それでも“私”は! そんな未来はイヤだから、イヤだから……うぅ…………」
言うだけ言い切って、萌郁はその場に泣き崩れた。
「――――」
黙らされた。返せる言葉もなく、ただただ圧倒された。そして否応無しに理解させられた。
桐生萌郁はすでにこの状況と同じ事をした記憶を持っている。
β世界線の彼女と同様に、俺とは異なる形でリーディング・シュタイナーを発動させているのだろう。
きっとこの末路も知っている。でもそれをよしとしなかった。これ以上繰り返したくないのだ。
だから――――変えて、と。俺達に託した。まゆりも撃ちたくなかったに違いない、でもそれは回避できなかった。
萌郁にとってこれが、本当にギリギリの選択だった。なのに俺は、裏切り者だと彼女を罵りあまつさえ殺意まで抱いた。
解る訳がないといえばそこまで。だが理解していれば、もう少しだけでも萌郁を信じていれば、まゆりも傷つかずにすんだのかもしれない。
そう思ったところではっとした。

――――だから私は、“その時”が来たとしか伝えられないと思う

あのスパムメールは彼女からの警告だったのだと。壊れていた時計が指し示していた時刻なんて今頃解っても仕方がない。
自身の不甲斐なさ、馬鹿さ加減にまた自虐的になってしまう。
「いつまで戻ればいいの?」
「紅莉栖お前…………」
いつの間にか紅莉栖がタイムリープマシンの前に立ち、起動準備を進めていた。
「早く! 私の気が変わらないうちに早くっ!」
俺の方は見ない。苛立たしげに頭を掻きむしって声を荒げる。彼女らしくない。
あまりにも彼女らしくない表情と行動に、俺と同様、いやそれ以上に、心の整理が出来ていないのだと判った。
「18日のあの時間だ」
俺の一言を聞いてピタリと紅莉栖の手が止まる。
「…………本当に、タイムリープマシン自体を“なかったこと”にするのね?」
「それでこの状況は回避できるはずだ」
彼女の手は動かない。
「ダメ、48時間以上は命の保障ができない」
画面から机上へ顔を俯かせ、手を完全にキーボードから離す。
「はぁ!? 何を、そんな致命的欠陥があるなんて聞いてないぞ!?」
「言う暇なんてなかったじゃないっ」
両目にまた涙を浮かべて、俺に怒号を返す。
「最初に説明する時に言えただろう!?」
「だって!」
「だってなんだと――――ぁぁあ! 口喧嘩してる場合じゃない」
「早く……しないと…………」
まゆりが命を削って言い合いに割り込む。
「急いで、時間がない」
涙を拭いながら、萌郁が立ち上がる。
「紅莉栖」
頼む。視線で互いの意志を強く伝え合う。お互いに時間がないのは解っている。
「ぅう…………っ、どうなっても知らないわよ。馬鹿!」
それ故に紅莉栖の方が先に折れた。無理を言ってすまないと、心の中で礼を言う。
「オ、オカリンマジで使うん?」
「他に即効性のある解決策でもあるのか?ないだろう」
やっと状況に追いついたダルを相手にする時間も惜しい。あるわけがない。
だから萌郁も……まゆりも自分の命を賭けてまでこの機会を捻出してくれたのだ。
室内を見回す。
騒いでは居ても平穏だったラボの面影も今はない。派手に散った血糊が壁面を斑に染め、死体になったばかりの誰かが無造作に転がっている。
――――こんな事、誰が望むものか。望んでたまるかよ。ぎりりと拳を握る。
「この世界線ではどうあがいてもSERNには勝てない。変えなければ俺達の未来は潰えてしまう。
 タイムリープマシンに目をつけられたならそれ自体をなかったことにすればいい。
 そうすればそこで世界線を切り替えられる」
まだ涙の跡が残る紅莉栖の横顔。心の中はぐちゃぐちゃだろう、彼女の父親、ドクター中鉢は死んでしまった。
その名誉挽回に利用するはずだったタイムリープマシンは彼女を含めラボメン皆を危険に晒した。
目の前で死のうとしている仲間と死んでしまった実の父親の悲願、天秤の両皿に乗せて比べられるものではない。
「……紅莉栖の父親だって助かるかもしれない」
「え……?」
つい、思っている事が口から漏れてしまった。
「あの飛行機を墜落させたのは間違いなくSERNだ」
振り向いた紅莉栖へそのまま言葉を続ける。β世界線ならばロシアで『中鉢論文』が大々的に発表される、即ち亡命は成功するのだ。
であれば仮に飛行機が墜落しようとも死にもしないし、論文自体もなくなる事はない。
「本当?……本当に、パパは助かるの?」
「きっとな」
このα世界線とは確実に違う結果が待っている。SERNの企みも悉く失敗しディストピアにもならないが、その代わりに世界大戦が勃発する。
「早く」
萌郁の声に急かされダルがレンジの扉を開く。クッションの隙間から下へリモコンを向ける。
「42型点いたお」
かすかにテレビ番組の談笑が聞こえてくる。酷く場違いでチャンネルを別のへ変えたくなるがそんな悠長な事はしてられない。
「こっちも」
「貸せ」
ヘッドギアを紅莉栖の手からふんだくり、
「本当にいいの?」
「構わん」
かぶりながら答える。これ以外の道はない。退路は既に断たれている。誰かが、否、俺がやらなければならんのだ。
萌郁に、まゆりにここまでさせておいて、させてしまった責任は取らなければならない。
例え偶然の産物によって運命が狂わされたとしても俺が諸悪の根源なのだ。命の一つ二つ失ってでも代償を支払わなければならない。
なにより俺自身が、俺の仲間がそんな風に不幸になる結末なんて絶対に認めん。認めるわけにはいかんのだっ!
自分でセットしておきながら未だに躊躇いを見せる紅莉栖をよそに、起動ボタンを押す。
ヘッドギアから記憶のスキャンが始まる、レンジのタイマーカウントが下がっていく。
画面上でバッファリングの進行状況をパーセンテージを示すバーが左から右へと伸びていく。早く。早くしてくれ。
やっと半分を超える。背後のドア、窓、床下さえもが気になってしまう。
77
78
80
84……90。そして95。
ケータイを取り出し電話レンジ(仮)の電話番号を選び出す。100%になると同時に放電現象が始まる。
地震にも似た激しい振動が起こり、暴れまわる青白い雷の軌跡が室内を明滅させる。
「きた!」
「オカリン……」
俺はまゆりに強く頷いて、
「任せておけ」
通話ボタンを押し込んだ。強く瞼を閉じる。頼む……!


  • 最終更新:2019-03-04 17:27:53

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード